9月2日から東京へ行ってきます。
最大の目的は、現在東京国立博物館で開催されている
「神護寺展」に行くことです。
終わりも近づいた頃思い出して
台風10号は、9月1日には
日本から抜けるだろうと
天気予報を見ながら予測したわけです。
見事にはずれて
ノロノロ台風は九州あたり。
速度が遅いと被害が甚大になるのが
これまでの例です。
こういうときは
祈ることしかできません。
これ以上の被害がないこと
無事に東京へ行けますように
自分は、人智が及ばない世界があると
信じている方です。
それは、例えば、自然や宇宙の法則です。
それは神様と言い換えてもかまいません。
ここで、ぶつかるのが自然や宇宙は科学だが
科学と宗教を一緒にするな
という考え方があることです。
最近、『般若心経』を覚えたのですが、
その中味は、人は「空」であるということです。
あるように見えてないのだということです。
仏陀はよりよく生きることを教え
その思想は現代の時代でも超えることはできていません。
また、あの世のことは一切言っていない
というのが、私の解釈です。
間違っていたら教えてください。
一方「唯物論」というのがあります。
簡単にいえば、目に見えるものがすべてで
見えないものはないということになります。
これがもっとも「科学」的だといわれ、
共産主義国家では、「宗教」は否定されました。
しかし、
旧ソ連がロシアになったとき、
ロシア正教は復活しました。
歴史学でも「証拠」のないものは、
否定されてきた歴史があるようです。
しかし、「光る君へ」に出てくる安倍晴明が
政=祭り、祭政一致という視点で
大きな存在であったことは
否定できません。
単なる非科学的な迷信でとらえると
たぶん、平安時代の歴史はわからなくなって
しまうのではないかと思います。
うちには仏壇があり、
毎朝お水をとりかえ、お供えをして
両親やご先祖様にも手を合わせます。
お墓参りにも行きます。
初詣にも行きます。
京都の三十三間堂にある
1024体の仏像を目の前にしたとき
これが自分のご先祖様だと思うと
合掌するのが自然だと思います。
1024とは、自分の両親2人×10世代ということです。
このひとりでも欠けたとき自分の存在はないわけです。
例えば、子供や孫に
この壮観としかいいようのない
1024体の仏様を見ながら
おじいちゃんやおばあちゃんたちがずっと
見ていてくれるんだよ
と教えたとき
子供や孫はどう感じるでしょうか。
恐らく、自分ではよくわからないが
敬虔な気持ちになるのではないでしょうか。
この人間以上の力に畏怖する心や
祖先との繋がりを信じられないことが
人の心を弱くし、
信仰とは全く異なる
カルトをよりどころにしてしまう
ように思います。
カルトと宗教が異なることに
感づかないということです。
戦後「古事記」の神話は歴史ではない
となりました。
事実ではないということでしょう。
しかし、神話というのは
そういうもので、
事実ではなくとも真実なわけです。
ゲーテは述べています。
話は戻りますが、
何とか、神護寺展へいけますようにと
祈るしかありません。
奥が深くてどれくらいわかるか
自信はありませんが、
胎蔵界曼荼羅と金剛界曼荼羅
は、一目見たいと思っていました。
今回の日程では金剛界曼荼羅しか
展示されていないようです。
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