一貫して国際法を守ろうとした日本
日本は、大正時代に第一次護憲運動、第二次護憲運経て、「憲政の常道」という「大正デモクラシー」を築いていきます。「憲政の常道」とは、「大日本国帝国憲法」のままで、衆議院で第一党になった党首が首相に就任するというシステムです。昭和に入って犬養毅の時代まで続きます。国際関係は、アメリカが主導して日本に対する態度も大きく変化していきますが、日本は国際協調という世界の流れで、イギリスとの同盟も破棄、軍縮の流れも受け入れていきます。
1.「大正デモクラシー」と国際協調の時代
1924(大正13)年、清浦奎吾内閣が組閣した内閣には、政党政治家がいない超然内閣でした。議会は反発し、普選断行・政党内閣実現などを掲げた「第二次護憲運動」が起こりました。
総選挙で憲政会の加藤高明、革新倶楽部の犬養毅、政友会の高橋是清の護憲3派連立内閣が誕生します。
首相は加藤高明が任命され、ついに超然内閣を倒して議会政治としての政党政治の道を切り開きました。そして、実行した政策も、この帝国主義時代にあって、国際協調の模範を示す取り組みでした。
まず、普通選挙法を制定して25歳以上の全ての男子に衆議院議員の選挙権を付与しました。
また、宇垣一成陸軍大臣は、20個師団中4個師団を廃止するとともに、建設中の戦艦を廃棄にしました。軍がしかも建設中の戦艦を廃棄にするということがどれくらい大変なことかということです。
第一次世界大戦後、アメリカのウィルソン大統領が主張した、現状維持、国際協調主義を踏まえて、日本は誠実に軍縮や帝国主義的でない政策を実行しています。
日本が軍国主義だったと戦前を一括りにするいい方がありますが、この段階で日本が軍国主義であったとはいえないはずです。それどころか、憲法等完全ではないにしろ、優れた民主主義が国民の力で育っていた事実は明らかなのです。
しかし、政府は、軍部の意向や世論の動向を押さえることができなくなっていくわけです。
「大正デモクラシー」は、戦争への道を止められなかったという考え方と逆に、「大正デモクラシー」のために、国民の海外拡張論や排外主義を押しとどめることができなかったという考え方があるようです。
どういうことか。民主主義が成長していたのに軍部の独走をとめることができなかった。もう一つは、民主主義が軍部の独走を支持し助長した、ということです。
2.アメリカの対日本戦略
時代は、ソ連とアメリカ合衆国という新興国の台頭とヨーロッパ諸国の第一次世界大戦後の相対的地位低下が国際情勢を変化させていきます。
そして、こうした日本の誠実な政策を翻弄していきます。アメリカのウィルソン大統領は、日本の誠実な対応を冷ややかにあざ笑うかのように日本の孤立化をジリジリと進めていきます。
最大の失敗はウィルソン大統領、そしてそのあとのF.ルーズベルト大統領の老獪なアメリカ外交の真意をつかむことができず、孤立していったことです。
アメリカのこれまでの対チャイナ外交「門戸開放・機会均等にプラス領土保全」ウィルソンの平和14か条の原則の中の「民族自立・現状維持」これがどういう意味をもつのか、日本は理解できずにワシントン体制にはまってしまいます。
ワシントン体制は、ウィルソン主導のアジア・太平洋の国際体制(戦略)第一次世界大戦後、ワシントン会議で結ばれた4か国条約(自動的に日英同盟解消)及び九か国条約。
これが後々大きく日本に不利に響きます。ヴェルサイユ体制は、ワシントン体制を含むヴェルサイユ条約中心のヨーロッパ中心の第一次世界大戦後のやはりアメリカ主導の国際体制(戦略)。ドイツもこのヴェルサイユ体制苦しめられ、やがてヒトラーが登場することになります。
ウィルソンアメリカ大統領イラスト
これは、評論家の江崎道朗道朗氏が、数々の著作の中で述べるところによると、アメリカには、大きく二つの流れがあるといいます。
一つは、親中派で、チャイナの安定がアジアの安定につながる。
一つは、親日派で、日本が強くなることでアジアの安定につながる。
親中派は、どちらかというと民主党。ウィルソン、F.ルーズベルト、クリントン、オバマ各元大統領、いずれも日本にとっては災いしました。
オバマ大統領が最初に訪問したのはチャイナでした。クリントン大統領の時は、失われた10年の始まりの頃で、アメリカのウォルストリート金融資本がチャイナと結びつき空前の大景気となりました。
F.ルーズベルト大統領は、日米開戦時の大統領で絶対若者を戦争に導かないといいつつ、真珠湾の日本軍の宣戦布告前の攻撃を使い「卑怯だ」と主張、アメリカは激高して開戦しました。
ちなみにS.ルーズベルトは共和党で親日派で日露戦争の仲介もしました。(日露戦争後、日本を警戒し始めます。)
ウィルソン大統領は、「平和14か条」における国際連盟の創設やヴェルサイユ体制、ワシントン体制など第一次世界大戦後の平和構築の尽力でノーベル平和賞を受賞しています。
ウィルソン大統領以前のアメリカもチャイナを市場とねらい「門戸開放・機会均等・領土保全」とあたかも世界の一部のものだけの利益はおかしいみんなの利益を考えて誰も文句が言えない内容です。
アメリカは、フロンティアが東海岸から太平洋側の西海岸に到達すると、ハワイ、グアム、サイパン、フィリピンと領土ないしは植民地にしていきました。
ペリーがやってきたのもその一環です。その後、南北戦争の間に
チャイナは、欧州列強に分割されてしまいました。
日本は、ロシアに備えて朝鮮だけはなんとしても、ロシアに介入させるわけにはいきませんでした。それでも危険であったため満洲が「生命線」ともいわれました。
何度でもいいますが、別にほしかったわけではなくて、安全保障、日本が植民地にならないための苦肉の策です。ですから、朝鮮も満洲も日本が自国の予算を持ち出して近代化に努めました。
アメリカにすれば、理由はどうあれ日本がアメリカの市場介入を邪魔している、日露戦争後アメリカのハリマンが、日米鉄道共同経営をもちだし、日本で桂太郎らと話がまとまったところに小村寿太郎がポーツマス会議から帰国し、反対したことで覆っています。
喜んで帰国したハリマンに破棄が伝えられたのですから、いわば煮え湯を飲まされたようなものだと思います。
しかし、これには、アメリカ資本の介入は、これまでの市場を奪われるので小村の考えが妥当だする考え方と、これまでの日露戦争のアメリカの恩を考えれば、日本に対する態度の決定的な変更をもたらしたことになり、ここで日本は譲歩すべきだったという二つの考え方があるようです。
4.まとめ
日本は、親日的なS.ルーズベルト大統領の資金援助や戦争への仲介で日露戦争の勝利の大きな要因となったことは確かです。しかし、日露戦争における日本の勝利がすでにアメリカの態度を硬化させていたというのは、間違いではないようです。賠償金を取ることができなかったのも、ルーズベルトによるものだという説もあります。当時、アメリカはまだ太平洋艦隊をもっていませんでした。日本のロシアバルチック艦隊に対するほぼ完勝は、アメリカを戦慄させたともいわれます。第一次世界大戦後、ウイルソンアメリカ大統領は、厭戦気分と平和希求の世界の風潮を利用しながら、アメリカに有利な国際秩序をつくり、それを通して軍縮を行うことによって日本の軍事力を押さえ込むことに成功しました。
。
↓最後のポチッとフォローをお願いします。応援フォローいたします。
↓最後のポチッとをお願いします。