一貫して国際法を守ろうとした日本
日本は、日英同盟により、イギリスより要請を受けて第一次世界大戦に参戦しました。結果として戦勝国となり、大戦景気にも恵まれ、国際的地位も向上します。「一等国」となったと国民は歓喜しますが、
国際情勢の大きな変化に気づきませんでした。大戦景気も静まり、日本は大正デモクラシー中で、国際協調の道を歩もうとします。
1.「二十一か条」は「要求」ではなく「確認」
その日本は、強い列強には従うが、弱いとみたアジア近隣諸国には高飛車だと述べている書物も少なくありません。
さらに、この「二十一か条の要求」が袁世凱政府に提出されたのは、1915年1月であり、列強は大戦の最中にありました。極めてタイミングの悪い時期であったことは確実です。
ちなみに「…要求」の言葉は日本側の確認を確実にするために袁世凱が望んだといいます。
袁世凱が、革命後に逆行するかのような皇帝を名乗るのも国の極めて不安定な力関係を集約するためだったようです。つまり、孫文ではこの中華民国をまとめ上げる力が不足していたということになります。
2.日本は世界初「人種差別撤廃条約」を目指した
1919(大正8)年に開かれたパリ講和会議では、敗戦国ドイツに過酷なまでの責任と賠償を求められました。
一方では、日本に対する風向きが変わったことがわかるものでした。
当時「列強」と呼ばれた国は英・仏・独・露・墺洪(オーストリア・ハンガリー帝国)・伊・米・日の8カ国です。
しかし、第一次世界大戦後、ロシアは社会主義国となり、ドイツは敗戦し、オーストリア・ハンガリー帝国は解体しました。
力を維持したのは、アメリカ、イギリス、フランス、日本でした。しかも、英・仏は総力戦による国土・国民そして経済ともに消耗が激しく、回復するにはアメリカを頼るしかありませんでした。
アメリカは大戦中も協商側を軍事的にも経済的にも大きな支援をしました。国土も戦場とならなかったアメリカは戦後も復興を支援し続けます。外交手腕にも優れたアメリカは、世界が向かうべき方向まで示してパリ講和会議を主催し、戦後の外交の主導権を握っていきました。
ワシントン会議では、米・英・仏・日の四カ国条約が結ばれて日英同盟が破棄され、五カ国条約では、主力艦トン数の割合を
米・英:日:仏・伊 ⇒ 5:3:1.75
とすることが合意されました。
さらに日本・アメリカ・イギリス・フランス・イタリア・ベルギー・オランダ・ポルトガル・中国が参加した九カ国条約で条文化された「領土保全・門戸開放・機会均等」の趣旨からして日本のドイツから継承した山東省の権益を中国に返還することとなりました。
アメリカは1917(大正6)年、 石井ランシング協定で一度日本の中国における「特殊権益」を認めていましたが、結果として破棄したことになります。
この会議に日本代表として参加していたのが、加藤友三郎海軍大臣でした。加藤は、世界平和と軍縮の風潮、英仏の海軍大臣が軍人ではなく文官であったことなどから、帰国後「大正デモクラシー」時の日本において、軍部大臣現役武官制を廃止するとともに、軍縮を行います。また、シベリア出兵からも撤退します。
加藤は、パリ講和会議において国際連盟が設立されることになったことで、日本として人種差別撤廃条項を盛り込むことを提案しています。
この時代、現代の私たちが考えている以上に人種差別が一般的であったのは、列強のこれまでの植民地政策を考えれば想像がつくはずです。
世界初の試みは世界に報道され、アメリカの黒人地位向上協会(NAACP)は、感謝のコメントを発表しています。
結果は、フランス、イタリアの代表各2名、ギリシャ、中華民国、ポルトガル、チェコスロヴァキアなど各1名の11名が賛成、アメリカ、イギリス、ポーランド、ブラジル、ルーマニアの5名が反対を表明しました。
しかし、議長のウィルソンは、このような重要案件は全会一致でなければ成立しない」と不成立を宣言したのです。ウィルソンのいうルールは、ないようです。
日本政府が、アメリカにおける日本人移民排斥政策をも配慮してのことでしたが、アメリカ国内ではこの日本の提案が強い批判を受けた時代です。
一方賛成多数にもかかわらず、自国の反対で否決された提案に対し、
1919年にアメリカ国内で黒人暴動が各地で起き、多くの死傷者が出ています。
3.外から持ち込まれたナショナリズム
「二十一か条の要求」は、袁世凱政府に出されたことは触れました。
実はこの段階で、中華民国は、主権国家と認められていましたが、まだ統一政権になっていないという事実があります。
一般的に教科書を読むだけでは、辛亥革命後、中華民国が成立したとしか読み取れないような記述です。しかし実際には、軍閥の袁世凱がやっとまとめ上げていること、革命の父といわれる孫文はほとんど国外生活をしてきており、自らの軍は持ち合わせておらず、実力に欠けていたということです。
日本政府にとって、中華民国の中で唯一信用があったのが、袁世凱であったということです。
袁世凱が皇帝であったのはほんの僅かな期間です。そして、簡単にいえば、「二十一か条の要求」は、初めて欧米並みの条件をつけることで契約を確かなものにしようとしたということです。
そうしないと残念ながら信用に値しなかったということなのです。これは、宮脇淳子著「真実の中国史」に述べられていることです。
次のように述べています。
-「(中国は)そんな条約は自分たちが生まれる前のものだ。前のやつが結んだのは知らない」といって本当に条約を反故にするのが当たり前の国なのです。- 宮崎氏はこうも述べています。
「袁世凱がアメリカに内容を漏らしたと書いている本もあるが、それはない。なぜなら、列強は自国に多忙であったし、仮に袁世凱が何をいったところで、日本の権利は列強が中国に持っている権利と同じなので、手は出ない。」
実際、調べた資料の多くは「袁世凱が内容を公表して…」と述べているような記述が多いのです。
さらに、この「二十一か条の要求」で最も非難の多かったといわれる「日本人の政治顧問」の条項は、日本に亡命していた孫文の発言に勇気づけられての希望条項であったといいます。
結果として、日本は「火事場泥棒」といわれ、袁世凱がこれを受け入れたにもかかわらず、それから4年も経て1919(大正8)年になってから、反日運動となって燃え上がります。
一般的には、パリ講和会議で中華民国の「二十一か条」破棄の要望が通らなかったことが、反日運動につながったといいます。しかし、繰り返しますが、「二十一か条の要求」を袁世凱が受け入れたのはその4年も前です。
北京の学生たち約3000人が反日運動を始め、全国に広がったとなっています。しかし、宮脇淳子氏によれば、現在もチャイナ全土に通じる言語はなく、漢字のみが伝える手段であることは変わりありません。それまで、整然とした学生運動ができる土台もなかったともいいます。 『真実の中国の歴史 1840-1949』宮脇淳子・岡田英弘監修(李白社)などより
国家が次々と変わり法も変わるチャイナでは、信じられるのは利害関係のみと言いきります。第二次世界大戦の段階でチャイナの兵は文字も知らず、いったいどの国と戦っているのかもよく理解していなかったといいます。特に農民は、国をそれほど愛していたわけではなく、自分たちの生活を維持させてくれるなら誰でもよかったといいます。
『日中戦争 戦争を望んだ中国 望まなかった日本』北村稔・林思雲(PHP)
日清戦争敗戦後、清国の留学生たちは、日本の文明を和製漢語で持ち帰り、軍も日本式化しました。さらに大正デモクラシーが大きな影響を与え、ロシア革命によるロシア帝国解体で諸民族が独立運動をはじめます。これにウィルソンの「民族自決」がナショナリズムにエネルギーを注ぎました。反日運動を組織化したのは、コミンテルンだと宮脇氏は指摘します。
そして実力者の袁世凱死後、今述べてきたように中国は、軍閥割拠の時代となり、誰が政府代表かわからなくなるのです。
しかし、1919年に爆発した五四運動は、以後反日として、共通の指標となっていきました。
4.まとめ
幕末から明治初期の決断が生死を分けた時代を生きた伊藤博文もすでに亡くなって日本政府も新しい世代が政治を行う時代となっていました。
不平等条約改正も成功し、第一次世界大戦は戦勝国となり、日本国内も大正デモクラシーの時代を迎えますが、世界情勢は、イギリス主導からアメリカ主導の国際秩序が構築されていき、新興国ソビエト連邦の出現で国際秩序は激変していきます。
一方、第一次世界大戦に対する厭戦気分と平和主義の風潮は、日本にも国際協調の機運が高まっていました。国際連盟の常任理事国にもなったように日本の国際的地位は、向上しました。
しかし、アメリカは、新しい国際秩序を構築して中華民国への市場介入を進めていきます。やがて来る1929年の世界恐慌が、こうした空気の日本の運命を翻弄していくようになります。
。
↓最後のポチッとフォローをお願いします。応援フォローいたします。
↓最後のポチッとをお願いします。