「米騒動」と「大正デモクラシー」

 

近代日本建設の明治時代

軍部が台頭したの昭和(戦前)時代

 

一言で言うと2つの時代を

表現できるかもしれません。

 

では、大正時代はというと…

「大正デモクラシー」

だろうと思いますが、

東京

東京駅 1914(大正3)年開業

 

意外にその中身は抜け落ちています。

 

さらにもう一言言うと

「政党政治」と「国際協調」の時代

といえるかもしれません。

 

その明治と昭和の間の短い大正時代を

今日は、政治の面から徹底して追いかけます。

 

大正時代は、

1912年7月30日~1926年12月25日まで

15年間です。

 

  「軍部大臣現役武官制廃止」の意味

 

資本主義の急速な発展の中で、
農村から都市に出てきて

工場労働者となったものの、
 

劣悪な労働環境が

問題になっている時代でもあります。

1911(明治44)年、

清国に辛亥革命が起こると、
 

陸軍大臣上原勇作は、

2個師団増設を西園寺内閣に要求しますが、

日露戦争後の財政難に増税も重なっていたため、
これが拒否されます。

すると上原勇作陸軍大臣は、

軍部大臣現役武官制を盾に

内閣を総辞職に追い込みます。
 

軍部大臣現役武官制というのは、
陸軍・海軍大臣は、

現役の大将・中将に限るというもので、
 

軍部がこれを拒否したり、辞職したりすれば、
首相そのものが明治憲法に定められておらず、

権限もなく、
 

必然的に組閣できないので

内閣は総辞職するしかありませんでした。

その後、藩閥・軍閥の色彩の濃い

桂太郎内閣が組閣されると
「閥族打倒、憲政擁護」のスローガンのもと、

国民の考えに乗っ取った

憲法に沿った政治をすべきだ
とする国民的運動が盛り上がり、
 

尾崎行雄の弾劾演説により

桂内閣は総辞職に追い込まれます。

桂太郎は、陸軍からの大臣と引き替えに

自分を首相にするような取引をしており、

これが世間より批判を浴びます。

この「大正政変(1913-大正2)」後、
山本権兵衛内閣は、

軍部大臣現役武官制を廃止します。

 

こうした動きは、教科書で

「第一次護憲運動」として習います。

 

すでにイギリスやフランス、ドイツでさえ

軍はすでに文民が統制していました。

 

廃止していないのはヨーロッパでは

スペインくらいだったようです。

 

山本権兵衛(ごんべえ)は、海軍大将です。

軍人出身の内閣が、

軍部大臣現役武官制廃止を行ったということです。

山本権兵衛(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より)

 

軍人は、悪いやつというステレオタイプ

が戦後民主主義を盲目にしています。

 

それは、

資本家は悪で労働者は善だというのと

同じです。

 

ちなみに山本ごんべえさんは、本当は

「山本ごんのひょうえ」だと聞いています。

さらに、吉野作造は「民本主義」において、
これに理論的支柱を加えます。

主権が天皇にあったこの時代にあっても、
政治は国民の意向に沿って

行われなければならないという意味で
「民本」といわれます。

ちなみに、

この軍部大臣現役武官制廃止というのですが、
よく調べてみますと、

「現役」が廃止になっただけで
 

武官、つまり現役以外でも

軍人であった人であれば、
大臣になれるということのようです。
 

つまり、これまでは、

現役の武官(大将・中将以上)が
入閣を拒否すれば、

内閣は瓦解してしまっていたわけです。
 

「現役」を廃止し、

予備役でも可能にしたということです。

予備役というのは、

だいたい軍を退職して一般の生活をしている人、
何かあったら召集されることがあるということです。
 

ということは、入閣を拒否された場合でも

他に複数の候補者がいる
ということになります。

 

軍の都合が通らなくなります。

軍の利益ではなく国政が優先ということです。

 

  日本国民が大正デモクラシーを推進した

 

こうした中、
第一世界大戦時に首相だった大隈重信が

後任に加藤高明を推薦すると、

元老会議は、

元陸軍大将の寺内正毅を首相にしました。

明治憲法下では、
それまで首相経験者たちが

元老として首相を推薦して
天皇が任命するという方法がとられていました。

しかし、ロシア革命後のシベリア出兵による米価高騰で
主婦たちが米屋を襲う米騒動が全国に広まりました。

国民の意思を無視した「超然内閣」では
もはや内閣を運営できないと判断し、

寺内内閣は総辞職に追い込まれ、
原敬が本格的な政党内閣を組閣します。

 

この当時はすでに衆議院選挙が実施されています。

しかし、現在のように最大多数政党が内閣をつくる

という当たり前のことができておらず、

 

明治維新から続く「藩閥内閣」が伝統であったわけです。

実際、薩摩・長州出身が多い。

それを「超然内閣」といっていました。


原は、選挙権を

直接国税10円以上を3円以上に引き下げていますが、
普通選挙法については、時期尚早と否定的でした。

原は、「平民宰相」といわれていましたが、
暗殺されてしまいます。
 
第一次世界大戦が終わると、
総力戦は経済的に国を支えた

女性の地位をも高める結果となり、

世界はワイマール(ドイツ)共和国の
ワイマール憲法における男女平等選挙権に見られるように
民主主義の風潮も高まっている時代でした。

 

選挙権のなかった「母さん」たちが全国で巻き起こした

「家族の生きる望みをつなぐ」必死の米騒動、

これが超然内閣を倒したのは、事実だと思います。
  

今日も最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

 

 

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