世界には二つの国際社会があった

 

父の兄、私の伯父は、大正生まれで

終戦時朝鮮にいました。

 

ソ連軍がくるというので

大変な状況だったといいます。

 

作家の五木寛之氏家族も

朝鮮におり、地獄であったことを

記しています。

この時、母を失ったことも

述べています。

 

このとき、「外地」といわれた満洲や朝鮮に

日本人は約700万人いたといわれます。

 

「口にはだせないような事態」(『人間の覚悟』より)

と述べています。

 

 

 

 

私の伯父は、

親しかった朝鮮人に助けられ

 

無事日本にたどり着くことができたと、

息子(私の従兄弟)にいつもいっていた

そうです。

 

伯父は、朝鮮にいて日本人と

同じように接していたことが

相手にも通じていたのでしょう。

 

当事者でないとわからないことは

たくさんあります。

 

こうした日本人はたくさんいたし、

そうでなかった人もいたでしょう。

 

それは、同じ日本人でも

皆それぞれ異なるのと同じです。

 

しかし、総じてどうだったのか

日本としてはどうだったのか

そこは重要なところです。

 

 

  「征韓論」に至ったのはこういう理由だった

 

初めての方もおられると思いますので、

若干繰り返しになります。

 

明治の初め、
日本の朝鮮への外交文書への朝鮮の対応は
次のようなものでした。

閔妃政権は、まず接見が先だとし、
しかも、

江戸時代以来の礼服着用を求めてきた

といいます。


日本側は、洋式大礼服、
つまり洋服のスーツが世界の常識だ

というわけです。

日本は明治の世となり、
文明開化の時代、世界の常識に習うことが
現在でいうところの国際社会の常識でした。

さらに日本側は、
宴饗大庁門の通行を

接見の条件として主張しました。

宴饗大庁門とは、

正式な外交使節を迎える門であり、
清朝使節のみが許されていました。

日本は独立国であり、
華夷秩序に組みしないと

いうことを伝えたわけです。

要するに、朝鮮は

日本は中華秩序にしたがえば

蛮国なんだから
 

つべこべいわないで

朝鮮のいうとおりにするのが正しいと

いっているわけです。

こうしたことが積み重なって

日本政府が、
ほぼ「征韓論」になっていく

ことになったと思います。

ちなみに、「征韓」とは、
現在から見るといかにも上から目線で、
 

しかも「征韓論」を
きちんと説明している書は

なかなか見つかりません。

 

そして、確かに強引に不平等条約である
「日朝修好条規」を締結しました。

いかにも日本が差別的で、

説明がないとそう受け取ってしまうでしょう。

 

事実、私がそうでした。

つまり、調べないと事実が出てこないのです。

 

そして、大方知らないので

調べた事実を述べても

嘘を言うんじゃないという顔になります。

日本にしてみれば、

それは宗主国の清国に配慮しながら
ロシアの南下に早急に備えるためにも、
必至のことでした。

繰り返しますが、

清国は朝鮮の宗主国、

つまり、この段階では

朝鮮は清国の属国

 

ですから、朝鮮と対等の条約は、
清国との関係を悪化させます。

イギリス フランス

世の中は、スペイン、ポルトガル以来

オランダ、

そしてイギリスが世界の大帝国となり、

フランス、さらには

イタリア、ドイツが台頭してくる

ヨーロッパ中心の世界

となっていたこの19世紀末の時代、

 

日本はこの国際社会に従うことが

これからの日本のためだと判断したわけです。

 

江戸時代に攘夷は不可能と知ったわけですし、

不平等条約を一刻も早く解消する必要もありました。

「国際法」に従うという選択をしたわけです。

 

ところが、アジア特に東アジアでは

一向に中華帝国(清朝)中心の

中華思想(華夷秩序)が常識でした。

 

しかもおまえ小国(日本)は

朝鮮より外にある蛮族だというわけです。

 

日本は「倭」ではなく「日本」

としてこの華夷秩序という国際関係から

脱してすでに1000年以上経ていました。

 

  朝鮮への外交が日清戦争、日露戦争へ

 

その後朝鮮国内では、
閔妃ら清国に従う事大党に対し、
日本を見習うべきだという

開化派が台頭してきます。

 

しかし、朝鮮の政治の内紛

というか、親子、舅嫁関係がもめます。


1882年の壬午軍乱(事変)で
高宗の父である大院君側が清朝を頼りに

高宗の王妃である閔妃を追い落とそうとすると、
閔妃も清の袁世凱を頼ってその力で復活します。

この時日本公使が襲われ、
外交官や民間人が命を落としました。

1884年の甲申事変では、
金玉均ら開化派の独立党が日本軍ととも、

閔妃派らの追い落としを図りますが、
また袁世凱の支援で復活します。

この時も日本公使館が襲われ焼かれました。

独立党の金玉均は、甲申事変後日本に亡命、
福沢諭吉らも日本で支援していましたが、
上海で閔妃一派に暗殺されています。
 

朝鮮は、金玉均の屍体をさらに辱める刑

を執行しました。

 

どんなことかは、

調べるとすぐわかりますが、

ここではこれ以上書けません。


その数ヶ月後に日清戦争が勃発します。

日清戦争後の下関条約では、
完全に朝鮮の独立を認めさせます。

 

しかし、
閔妃政権は今度はロシアを頼り、
日本の意図が理解されませんでした。

ロシアが三国干渉を行うと

益々ロシア寄りになっていきました。

 

朝鮮は、日本は自分たちより下の蛮族

だとしているし、

 

よく言われる「事大主義」

つまり、強い方に頼ることで

生き残ろうとするわけです。


こうした動きに極度の不信感に陥った
日本公使の暗躍によって閔妃が
暗殺される事件が起きます。

 

日本と朝鮮の思惑は

ことごとくすれ違っていることが

わかります。

 

朝鮮と日本の関係を述べていますが、

あくまで背景にロシアがいることを忘れると

この時代の真実が見えなくなってしまいます。

 

今日も最後まで読んでいたただき、ありがとうございます。

 

 

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