米露のハンバーガーとなった日本

 

日露戦争において、

アメリカ大統領セオドア・ルーズベルトが

イギリスのユダヤ資本と共に

日本を資金援助してくれたのは有名です。

 

セオドア・ルーズベルト大統領は、

新渡戸稲造著『武士道』のファンで

あったことも事実のようです。

 

しかし、日露戦争がそれを一変させた

ようです。

 

 

 

 

 

  アジア(清国)人も移民としてやってきた

 

話は、日露戦争前に戻ります。


1848年アメリカがゴールドラッシュに

湧いていました。
 

ついにフロンティアが
アメリカ西海岸に到達した瞬間でもあります。

アメリカは、遭難した日本人を乗せて
何度か日本へ来ていた頃です。

同じ頃、チャイニーズクーリー(苦力)といわれる
清国人の下層低賃金労働者が、

アメリカ移民として働いていました。

清では、ちょうど

アヘン戦争から太平天国の乱、
アロー号事件と混乱が続いた時期でした。

アメリカ西海岸に

太平洋を越えて移民する清国人も
少なからずいました。

彼らは勤勉でよく働き、
貯蓄も知っている点で
黒人やアメリカの先住民と

異なっていたといいます。

彼らは、カリフォルニアに定着し、
職業を持ち土地も持つようになっていました。

同じ頃、アメリカの人口は増加し、
飢餓が襲ったアイルランドから
西部の土地を求めてやってきます。
 

 

  アイルランド移民と清国人

 

1801年に

グレートブリテン及びアイルランド王国が

成立しています。

そこに1840年代に

ジャガイモの疫病が発生します。

ジャガイモは、冷涼でやせた土地でも

育ちます。

 
我が家の一角に植えられたジャガイモ。やっと花をつけ始めました。これでビールをやるのが
楽しみです。写真は本文と関係ありません。(笑)

 

南米からもたらされたジャガイモは

ヨーロッパに広まりました。

 

しかし、疫病がヨーロッパ中に広がりました。
アイルランドの土地の地主の多くは

イングランドに住んでいました。

 

そのため、事態を把握できなかったのか、

十分な救済策もなく、

特にアイルランドは、その対策のまずさもあり、

特に過酷でした。
 

1847年は特にひどく「ブラック47」

といわれます。
 

100万人が餓死し、
100万ともいわれる難民のような移民が
カリフォルニアに押し寄せました。

ところがそこには、

清国人がすでに居住していました。


自分たちよりよい生活をしていることを

目にするわけです。

多くの移民たちが

清国人を襲撃、掠奪、虐殺していったといいます。
 

すでに南北戦争も終わり、

黒人奴隷の売買も禁じられていた頃、

アメリカ政府は、

移民たちの行為を非難しますが、
地域や州の声に押される形で、
 

1902年に

清国からの移民を完全に

禁止する法律ができました。

清国政府は、

アメリカに渡った移民を棄民扱いにしており、
 

それについて、
アメリカが清国から非難される心配は

ありませんでした。

 

棄民とは、

(災害や戦争などで)困窮した国民を国が見捨てることです。
 
そうした頃に移民として太平洋を経て

アメリカに渡ったのが日本人でした。
 

この日本人は、

清国人とも明らかに違っていたといいます。

 

この日本人が、

アメリカ人を恐怖に陥れることになります。

 

そして結果として

我が国は、アメリカとロシアに挟まれて

身動きできないハンバーガーの状態

となっていきます。

 

さらに辛亥革命後の中華民国(国民党)が

アメリカとの関係を深めていき、

日本は孤立を深めていきます。

今日も最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

 

 

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