国力が違いすぎる日本とロシア

 

毎日、天が落ちてくるのではないか

と心配して夜も眠れない

 

これを「杞憂」という

というのは、チャイナの古典『列子』に由来。

 

春秋時代の杞の国に

天が落ちてくる、あるいは天地がひっくり返る

と心配していた人がいたというところが語源。

 

しかし、地震が起こることを想定するのは

杞憂ではないことは、いうまでもないことです。

 

では、戦争が起こったらとしたら、

と考えることを「有事」と発言して

更迭された大臣は

かつて、たくさんいました。

 

今でも、戦争を想定すると

「戦争をしたがっている」

 

憲法を改正しようというと

「戦争ができる国になる」

といって批判されます。

 

正直、この「戦争ができる国」

という意味がよくわからないのです。

 

戦争をしたいと思う人は

一般的に皆無だと思います。

 

しかし、こちらがそうでなくとも

相手があるのが戦争です。

 

戦前日本は、

1894年日清戦争

1904年日露戦争

1914年第一次世界大戦

1941年第二次世界大戦(対米英)

 

約100年の間に10年ごと

大きな戦争をしていました。

 

最後の戦争での甚大な犠牲は、

日本にもう戦争はこりごりだという

意識を植え付けました。

 

戦争は、やらない方がいいのであって

やらなくてすむ方法は、あるとすれば、

 

最初から相手に戦う意思をなくさせること

しかない、と私は考えます。

 

それは、何らかの圧倒的力を持つ

あるいは、戦うことで不利益しかない

と思わせる準備(防衛)が必要です。

 

今、この帝国主義の時代

はどうだったのか。

 

ロシアが朝鮮半島に乗り出してくるのは

時間の問題。
その次は日本海へ、

 

そうすれば次は…

と考えておくのが防衛というもので

これを杞憂といえば、

当時のご先祖様たちが怒るでしょう。

 

明治政府は、国力差からして

どう考えたのでしょうか。

 

 

  だから日本はロシアとの開戦せざるを得なかった


日本の国力を考えれば、
ロシアとの戦争は避けたいと考え、
交渉に動き出したのが、伊藤博文です。
 
伊藤博文は、

満洲におけるロシアの権利を認める代わりに
朝鮮半島の権利を日本に認めてもらおうという
「満韓交換論」による日露協商を提唱します。

 

何度も言いますが、

日本は朝鮮に開国して共に近代化してほしかった

それが、日朝両国のため、

基本的な考え方はそうだったと思います。

 

しかし、これまで述べてきたとおり
まったく受け入れてもらえなかったという

経緯があります。


これに対してロシアは、

朝鮮半島の北側を軍事中立地帯として、
日本には南側の権利を譲る

という提案をしてきました。

日本側は、

三国干渉で清国に返還した遼東半島と同じで

 

実質的にロシア領となることは明らかだと、
ついに交渉は頓挫することになります。
 
一方、山県有朋や桂太郎、小村寿太郎は、
日露協商が成立しても長続きすることはない

と 読んでいました。
 

むしろ先を伸ばすことで、

シベリア鉄道が開通してロシアの兵站が可能になり、
日本は決定的な不利になると考え、開戦を主張しました。
 
実際には、
日露交渉と同時に外交交渉も含めて

開戦の準備も進められました。

ロシアの動きは、
当時南アフリカのボーア戦争で

身動きがとれなくなっていた
イギリスをも刺激しました。

特にシベリア鉄道の着工は、
イギリス艦隊の手の届かない陸路での

極東移動が可能になります。

しかも、フランスの融資が関わっており、
イギリスと対立するドイツとも関係が深まれば、
イギリスは孤立する可能性もありました。
 

 

  日英同盟という世界の衝撃

 

イギリスは日本との利害が一致したことで、
1902年日英同盟を締結します。

その1月、小村寿太郎の言葉は象徴的だと
半藤一利氏が述べています。

伊藤(博文)公も井上(馨)公も甘い。
ロシアと手を組めば小娘が手も足もしばられて手込めにされるようなもので、約束の結婚となると、蹴倒されて逃げられてしまう。もともとロシアというのはそういう国なのだ。
ところがイギリスは、同盟を破ったというようなことは、歴史上に一度もやっていない。あの国としっかりと同盟を結んで早くロシアと対決姿勢を高めた方がいい。
   (半藤一利著「あの戦争と日本人」文藝春秋)

 

 


これについては、いろいろな見方があります。
イギリスは、孤立を防ぎロシアと対抗するための策だ。
つまり、日露戦争となった場合は

それは代理戦争だということです。

ビゴーの風刺画がそれをいちばんよく著しています。

 
下は,ビゴーのいわゆる「火中の栗」
ロシア イギリス アメリカ 日本
左がロシアで栗を焼いています。
右の腰の剣二手を書けているのが日本
その後ろでけしかけているのがイギリス
さらにその後ろで様子を伺っているのがアメリカ

半藤一利氏も、この当時の日本は

アジアの隅っこにあるただの貧乏国だった。
その国と同盟を結んで何の得があるのか。
 

この時、夏目漱石も同じようなことを書いているといいます。

下の風刺画も似たような構図です。
日露戦争

しかし、
日本は、1894年に領事裁判権を撤廃していました。
このことは、法治国家としても国際的に認められた
ということでもあります。

渡部昇一氏は、日本が西洋並みの国民国家になった
ということを

イギリスが認めたということだいいます。

 

イギリスが領事裁判権の撤廃を認めると

他の列強(米露独仏)も

領事裁判権の撤廃に同意していきました。

         
確かに
この条約は、

ヨーロッパの白人以外の国家と同盟という
同等の条約を結んだことで

世界に衝撃を与えたといいます。

 

それほど、人種差別が当たり前であった時代

であることは確かです。
 

この感覚は、

今の時代では到底信じられないことですが、
 

もう少し時代が進んだ段階で

述べる機会をつくりたいと思います。

では日英同盟がなければ、日露戦争はなかったか。

いやがる人はいやがる歴史のifですが、

私は、確実にあったであろうと思います。

 

また、当時日銀副総裁であった高橋是清は、
イギリスのロンドンでユダヤ資本家から
多額の外債購入を取りつけることに成功します。

これは、

ロシア国内におけるユダヤ人迫害に対する
日本への期待の表れでもありました。

アメリカのニューヨークでも

外債をまかなうことに成功して、
合わせて8億円調達することができました。
 
ちなみにこの借入を完済したのは、
1986(昭和61)年という

文書資料を見つけたのですが、
 

その後、

1980年代のいくつかの説もあることもわかり、
結局はっきりしません。

ただいえることは、

それくらい巨額な資金であったということです。
 
アメリカは、

ヨーロッパ列強が清国を分割していく中で、
遅れを取っていました。

さらに北清事変に絡み

ロシアが満洲を占領したことは
アメリカを刺激しました。

すでに「門戸開放・機会均等」

を列強に提示してきたことに加えて
「領土保全」を加えて、ロシアを牽制してきました。

また、アメリカ大統領セオドア・ルーズベルトと
アメリカの大学で友人であったという金子堅太郎は、

伊藤博文の特命を受けて渡米し、
ロシアの現状を伝えることで
アメリカジャーナリズムの声を

日本側に引きつけることに成功しました。

その時、S・ルーズベルトは、
新渡戸稲造が英訳した武士道を読んで感動し、
それが日本の理解につながったことは

本当だったようです。

ルーズべルトは、日本に多額の支援も約束しました。
イギリスやアメリカにとっては、
日本はある意味、渡りに船だったことは確かです。

 

しかし、

私は日本にとってもこの英米の支援がなければ、

この戦争を遂行することは不可能であったと思います。

 

不可能であったということは、

国の滅亡です。

植民地となったということにほかなりません。

 

アジアでやっと目覚めて世界の舞台で

奴隷(植民地)にならず自立(尊厳)を守ろうとする日本。

 

小さい国ですが、

我々のご先祖様は本当によくやっている、

私はそう思います。
 

今日も最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

 

 

 

 

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