日露戦争前の世界

 

前回の続きになります。

日本の隣国、ロシアを中心に

日露戦争前の世界の状況を述べていきます。

 

ちなみに、ロシア人は極めて親日的です。

私も驚いたのですが、

日本文化や習慣・伝統には

とても親しみを感じています。

 

ただ、領土の話になると

全く別のようです。

 

 

  20世紀 ロシアはまだ農奴の国だった

 

司馬遼太郎氏の「ロシアについて」の記述です。

 

帝政時代のロシアは、シベリアに在住した軍隊や

役人、毛皮商人らは絶えず飢えていた。

特に穀物と野菜不足になやまされていた。

(それは、極寒の地ですから。)

そこに日本という国の発見があり、

この難題の解決に曙光をもたらすものでなくてなんであったろう。

「ロシアは興奮した」とまであります。

 

しかし、

日本の答えは冷たいものでした。

通商の求めを拒否したのは、

ロシアだけでなく、

アメリカに対しても同じであったことは、
いうまでもありません。

相手は、通商を求めているだけだったのに対して、
幕府の対応は、

冷たいだけでなくあまりに無礼でした。

そのうち、ロシアは、北海道近海を中心に、
掠奪や乱暴など荒らしまわることも

何度か起こるようになりました。
 

アヘン戦争の情報を得た幕府は、
態度を変更しましたが、
すでに遅かったというべきでしょう。
 
しかし、日本は、開国して政府が変わっても、
江戸幕府と海外との不平等条約は、
 

引き継ぎ、瞬く間に天皇を中心とした

近代国家に変貌しました。
 

外交も万国公法という

欧米(ヨーロッパ)型世界標準に

切り替えました。
 
ロシアは、

ヨーロッパの中心からは

遙か奥深いところにあります。

また、19世紀になり大国になったとはいえ、
ロシアは、市民革命や産業革命を経て
国民国家となっている西ヨーロッパ諸国に比べて、
 

皇帝と少数の貴族と地主、
大多数の農奴というモンゴル帝国の専制支配を

引きずっている国でした。

農奴というのは,簡単いえば、

皇帝の私物だということです。

 

皇帝は貴族団の長的存在であり、

私有地をもち

私有物としての農奴をもっています。

 

ちなみに江戸時代の大名でさえ

国替えに象徴されるように

土地さえ所有権がないことがわかります。

 

領民ももちろん、奴隷ではありません。

 

基本的に日本は古来、

社会制度としての奴隷制度

存在しないのです。

 

帝国主義の時代にあり、
ロシアは、皇帝主導で

国家のヨーロッパ化を図ります。
そのためにも、開かれた凍らない港が必要でした。

 

清国が、古い体質そのもののまま

洋務運動を行ったことに

似ているかもしれません。

 

近代化とは、ヨーロッパ化であり、

国民国家の成立が一つの答えです。

 

中身を変えないで変身しても

自分だけは、その本質を知っています。

 

  光栄ある孤立を捨てるイギリス 

1853年、オスマン帝国の弱体化に伴い、
領内のギリシャ、スラブ、アラブ民族などが独立しようとすると
これに自国民族保護を名目にロシアが支援し、
それを阻止しようとするイギリス・フランスの思惑が絡み
クリミア戦争となります。

クリミアとは、今よく耳にするあの「クリミア」です。
 

ロシアはこれにより、

英仏両国により南下を阻止されます。
西側の出口を塞がれたロシアは、

東側から出ようとします。
  
すでにイギリスは、

世界の1/4を植民地にしている

「太陽の沈まない国」でしたが、
 

ロシアとは対照的に国土そのものは、
日本の2/3ほどの面積です。
 

日本と同じように海洋国家であり、
イギリスは「海の道」を通って大英帝国を築き、
 

大陸国家ロシアは「陸の道」を通って
大ロシア帝国を建設することができた

といわれます。

ロシアは、

この頃100ほどの民族と約80の言語、
5つの文字、

宗教もギリシャ正教、イスラム教、ユダヤ教、仏教
などを含む多民族国家でした。

これをまとめていたのが、

当時のロマノフ王朝のツァーリズムであり、
まさにモンゴル帝国が支配していた時の

寛容性が生きていました。

 

もちろん、対外的にどうしても警戒すべき

体質もあります。

 

これも司馬遼太郎著「ロシアについて」から

抜粋します。

外敵を異様におそれるだけでなく、病的な外国への猜疑心、そして潜在的な征服欲、また火気への異常信仰、それらすべてがキプチャク汗国の支配と被支配の文化的遺伝だと思えなくはないのです。

モンゴルがヨーロッパへ攻め込んだとき

そのモンゴル軍がそのままとどまったのが

キプチャク汗国です。

 

モンゴル帝国

 

この司馬遼太郎氏の記述を見たとき、

現在のロシアの状況がどうしても

なるほど、そういうことだったのか

と思ってしまう人が

ほとんどではないでしょうか。

 

イギリスは、

アフリカでフランスの横断政策と対立し、
 

アフリカとインドを結ぶ航路で

ドイツと対立していました。
いわゆる

ケープタウン・カイロ・カルカッタを結ぶ3C政策を
 

交通と通信の要にして

帝国主義を進めようとしていました。
 

1869年スエズ運河を開通させて、
地中海、紅海、インド洋を

一気に結ぶようになっていました。

ロシアの南下政策は、

凍らない港を求めて
西は黒海から地中海に抜ける

ボスポラス・ダーダネルス海峡、

そしてその反対の東側は、朝鮮半島を目指します。
それは、イギリスの利益と相反するものでした。

同時に中央アジアのアフガニスタンが、

イギリスとロシアの対立の火種となり、
いわゆるグレートゲームが起こっていました。

つまり、

インドを植民地とするイギリスと
南下してくるロシアが接するところで

対立しているわけです。
 

それを絶妙な勢力均衡でコントロールしていたのが
遅れて統一した大陸国家ドイツでした。

ドイツ宰相ビスマルクは、

フランス、ロシアと結んで
大国イギリスを「光栄ある孤立」に追い込んでいました。

 

「栄光」ではなく「光栄」であるところが

ミソです。

日清戦争後の日本に対するロシアの三国干渉が
ドイツとフランスである理由がここにあります。

清国に利権を持っているイギリスは、
ロシアが清国に影響を及ぼして
極東から海に出ることを

阻止したいと考えるわけです。

 

こういう歴史を考えたときに、

再び、2014年にクリミア半島をロシア化した

ロシアは、繰り返している

としかいいようがありません。

 

これが体質なら、

クリミア半島を失ったとき

再び東へ視点を転じるということも

十分考えられるのではないでしょうか。
 

 

今日も最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

 

 

 

 

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