日露戦争後、日本は欧米から危険視されていく

 

昨年発信したブログのバージョンアップ版を

お届けしています。

 

 

明治政府は、

江戸幕府が結んだ不平等条約を引き継ぎ、
条約改正を目指してきました。
そのために、欧米の近代化について学び、
富国強兵、殖産興業、四民平等、

キリスト教布教許可、太陽暦導入のほか、
 

1885年には内閣制度を設立して
1890年には第一回帝国議会選挙も行われました。

帝国主義の大波が

旧態依然として

弱体化したアジア各国を襲う中で、
 

唯一日本だけが

生まれ変わることに成功しつつありました。
 

 

  今こそ、歴史に学ぶとき


日本は、これまで述べてきたとおり、
1894年には、日清戦争直前に
イギリスと日英通商航海条約で

領事裁判権を撤廃することができ、
 

大国イギリスが国際社会における一国として

日本を認めたことで
他国もこれに次々と調印しました。

また、日露戦争で日本が勝利したことで
日本の国際的地位がさらに向上し、
 

同時に国内法体系整備についても

不信感が払拭されて、
日米通商航海条約において

関税自主権が完全に回復しました。

 

大国ロシアに勝利したと

国民は歓喜していました。

「一等国になった」と。

 

しかし、実際には

薄氷を踏むような勝ち方でしかありませんでした。

予算も尽きて、

その借金の返済完納は1989年でした。

(他の説もあり)

 

このことを、

国民はまったく知らないわけです。

 

いや、

政府が知らせていなかった

というべきかも知れません。

 

こうした日本の国際的地位向上は

もっとも「坂の上の雲」近づいた頃

だったかもしれません。

 

 

しかし、その裏腹に
日本に対する警戒感も

欧米列強の間に出てきていたことに
日本は気づいていたのでしょうか。

イギリス

 

もともと、

ヨーロッパ諸国が近代国家になって鎬を削り

自国が生き抜くための収奪が帝国主義です。

 

日本は収奪される側から自力で

抜け出ることができたのです。

 

しかし、

世の中は、国際法があるとはいいながら

暗黙のルールは帝国主義であり、

 

それは、奪い合いということばが

一番当てはまるように思います。

 

要するに弱肉強食。

 

そのヨーロッパと新興国アメリカの中に

ぽつりといるのが日本でした。

 

1980年代後半、

高度経済成長の後

バブル経済景気で

21世紀は日本の時代といわれた頃から

 

以後30年間

日本は低迷期であえいできました。

 

日本近代80年周期説があるそうです。

 

明治維新から日露戦争を頂点として

その後の40年が下り坂

 

戦後、バブル経済景気を境に

その後現在まで30年が下り坂

 

歴史は繰り返すのか

歴史に学ぶのか

あと10年どうすべきか。

 

 

  生き馬の目を抜くような国際政治は変わっていない

 

イギリスが、

第三次日英同盟改訂の申し出をしてきた時、
 

その理由は

アメリカと仲裁裁判条約を結ぶためでした。
 

どういうことかというと、

この条約を第三国と締結した場合には、
 

この第三国への同盟国としての参戦義務を

負わないということです。

つまり、イギリスはすでにこの段階で
日本とアメリカの対立を見据えており、
 

一般的な「第三国」という内容で

イギリスが
アメリカに参戦することを拒んだ

ことになります。
  
アメリカは、満洲の市場開放を

「門戸開放」として迫っていましたが、
 

日本はロシアと1907年日露協約で
互いの満洲における権益を守ることを

秘密条約として締結します。

こうした動きを後押ししていたのが
すでに1891年に露仏協商を成立させていた

フランスです。

フランスは、ドイツと対立するようになると
イギリスとの連携を模索し始め、
 

1904年に英仏協商を結んで

アフリカでの対立を解消し、
 

日本が日露戦後に

財政難であることに目をつけ
国債を英仏で引き受ける約束を取りつけました。

日本も国内のロシア批判もあったにもかかわらず、
目の前の利権を取った形になり日露協約を
成立させることになったのです。

極東の安定を見届けたイギリスは、
英露協商を1907年に成立させます。

つまりこれが、

三国協商で世界情勢は

目まぐるしく変わっていきます。
 

ドイツは、ビスマルクが

絶妙なバランス外交を続けていました。

世界で1/4を植民地にして

覇権を握る大英帝国を孤立させることで
いわゆるバランス・オブ・パワーを保っていました。


つまり、

国際政治の力のリアリズムに徹した

戦争回避でもあったと思います。
 

ところが、
ヴィルヘルム2世と対立すると

辞任に追い込まれました。

そして、皇帝自ら親政を推進するとともに

 

3B政策、
ベルリン・バグダット・ビザンティウム(イスタンブール)を
結ぶ鉄道を計画で、

イギリスとアジアで対立するようになっていました。

日本は、この動きの中で

世界の全体像がみえていたのか疑問です。

世界の列強に追いついたと思った時、

前には誰もいませんでした。
すでに完全に自力で進んでいくことを

余儀なくされていたわけです。

世界情勢は、
日露戦争後そのバランス関係が

大きく変わろうとしていました。

そして、日本の明治以来の国の目標である

不平等条約改正が達成した段階で
 

次の国家目標があったかといえば、

たぶんなかったでしょう。
「坂の上の雲」にもっとも近づいた段階で

ほっとしている間、
空の写真

欧米列強の対立は激化、

国際関係も目まぐるしく変わっていきます。

誰かが言ってました。
生き馬の目を抜くような国際政治に

日本人は向いていない。

しかし、

その中でしか今も昔も生きていくしかありません。
 

幕末の修羅場を生き抜いてきた

伊藤博文たちが生きている間は、

徹底したリアリズムでした。

 

 

今日も最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

 

 

 

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