近代国家日本が初めて出会う対外戦争

昨年発信したブログのバージョンアップ版を

お届けしています。

 

李氏朝鮮時代、埋もれていた

「ハングル」を日本が発見、

普及させたことを前回述べました。

 

私のブログによく訪問してくださり、

コメントもくださる「哲人クニちゃん」様より

今回も次のような

貴重なコメントをいただきました。

 

本今は「ハングル」と呼ばれていますが
以前は「諺文(オンモン)」(民間の文字、卑俗な文字)と
言われていました。

https://www.y-history.net/appendix/wh0801-042.html

何十年か前までは日本の漢字かな交じり文と同じように
ハングルと漢字の混じった表記でしたが、今は原則ハングルのみ、
同音異義語が多いので高度な思考には向かないでしょう。
(日本語の表記が「かな」だけ、と想像すれば分かると思います)

https://www.sankei.com/article/20130504-SQHOBYLSYFPBDOGFCFV3B35QWA/文テキスト

哲人クニちゃんさんのブログです。↓

 

 

結果論ですが、

あれほど導入に反対したハングルを残し、

使用歴の長い漢字を廃止したということになります。

 

つまり、日本も現在漢字と仮名交じり文

を使用していますが、

韓国は、漢字を廃止したということになります。

 

私も同様に、日本で馴染んできた漢字を廃止したら

 

「庭には二羽裏庭には二羽鶏がいる」が

「にわにはにわうらにわにはにわにわとりがいる」

となるわけです。

 

これは、笑えますが

だれも本なんて、文章を読まなくなるでしょう。

 

 

  朝鮮との関係が日清戦争を引き起こす

 

1860年代になると

欧米列強は、

朝鮮にも開国を迫りました。

 

朝鮮は江戸幕府のように

攘夷を強めました。

しかし、日本は、

攘夷の不可能をさすがに感じ取ると

一転して国の仕組みを作り替えました。


日本は、近代国家に生まれ変わり、
日清修好条規により

清国と対等な関係をもつにいたります。
 

同じように朝鮮にもそれを求めたものの、
結局清国は

宗主国として朝鮮を支配する関係は変わらず、
そのため、日朝修好条規には、

領事裁判権など不平等な内容が

盛り込まれることになったのです。
  
さらに、朝鮮の貴族階級である両班は、
日本政府と交渉する際、

その相手が旧武士階級であったことが
格下だということで

相手にもしなかった

ということを述べてきました。

 

それでも日本は、

今でもそうですが、粘り強く交渉を重ね、

最終的には、近代国家として独立することを

望んでいました。

 

しかし、
その後、朝鮮国内で

1882年壬午軍乱が起こります。
 

高宗の父である激しい攘夷派の大院君が

1873年に引退した後、
 

高宗の皇后の閔妃らが

実権を握っていましたが、
 

日朝修好条規締結以後、

日本との関係にも不満を持った兵士が

反乱を起こして日本公使館を襲い、

日本人を殺害して大院君政権を復活させました。

清国はこれに出兵して

閔妃を元に戻しました。
 

これに対して、1884年の甲申事変では、
金玉均らが清との相続関係を否定して

日本と結びついて閔妃政権打倒を目指しました。
 

しかし、

袁世凱らに阻まれました。
その際、日本公使館が焼き討ちにあい

日本人数十名が殺されました。
 

対立の深まった日清両国は天津条約で、

将来出兵時の事前通告などを約しました。
 

以後閔妃は、清側と結びつき、

大院君とも抗争が絶えなくなります。

 

これは、欧米列強から見ても

身内の争いにしか見えなかったようです。

 

いってみれば、いつまでたっても

独立できない子供の面倒を見るような

これが植民地の一つの論理でもあります。

 

ただ、欧米列強はこの状態の故支配を強め、

日本は、あくまで独り立ちするまでの援助、

そう考えてよいと思います。
 
アヘン戦争に始まり、

清国も否応なく

帝国主義の中に巻き込まれていく中、
 

清国での政治は、

李鴻章など一部の漢人官僚が関わっている程度でした。

ただ、光緒帝と摂政の西太后が

権力闘争に終始している中、
近代化の模索もあった時代です。
 

 

  朝鮮にとって日本は蛮族だった


1884年、清仏戦争の敗戦で、

清国はベトナムの宗主権を放棄させられると、
清国は朝鮮の支配を意識し、
化外の地としていた台湾を

福建省から分離して台湾省に昇格させました。
 
1894年、

朝鮮で甲午農民戦争(東学党の乱)が起こり、
朝鮮は、結局自力で鎮圧できずにいました。

 

清国に助けを要請し、
日本も天津条約に従い出兵することになります。

日本の国論は、

勝海舟を除いてほとんど清国討つべしでした。

 

ここはもう一度、日本の立場で

考えてみてください。

 

対等の条約を結ぼうとして

門前払いにした上、

日本の領事館を数度にわたり襲い、

死者まで出しました。

 

さらに、これに対処するどころか

宗主国清国に日本排除を促しました。

日本は、日本人の保護をする

必要があります。

 

では何で、朝鮮に対して

対応しなければならないのか。

 

それは、背後にロシアの存在があるからです。

この時点では、どこにもその気配は

ありません。

 

しかし、日清戦争後突然、

「三国干渉」という形で見えてきます。

三国とは、ロシア・ドイツ・フランスです。

 

そして日露戦争へつながり、

日本は、この三国と敵対関係にあった

イギリスと結びついていきます。

 

突然といいましたが、

本当は突然でも何でもありません。

それが当然予測される上での

明治政府の東アジア外交でした。

 

日本は、

初めての対外戦争でかつ「眠れる獅子」

といわれた大国との戦争に
自信があったわけではないようです。

 

清国の「北洋艦隊」は、

近代的西洋艦隊といって

恐れられていました。

 

ところが、圧勝でした。

これまで述べてきたとおり、

清国の「北洋艦隊」ではなく、

 

李鴻章の「北洋艦隊」であり、

兵は、食うために働いている、

戦闘が終わったら

略奪・強奪が目的のような

の兵の集まりでした。

 

日本は、自分自身が国家の運命を背負っていると

意識しているような国民国家の兵でした。

 

 

今日も最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

 

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