「征韓論」の一番向こう側にあるもの

 

征韓論→日清戦争→日露戦争→韓国併合

→日華事変(日中戦争)→対米英戦争

(大東亜戦争⇔太平洋戦争)

この流れを追っていくと

ひたすら日本が侵略を進め、

最後はアメリカ(イギリスも)と衝突せざるを

得なかった、ように思えます。

 

ではそもそも、始まりは何だったか。

 

まずは、ペリーによる開国。

これにより日本は、一気に帝国主義という

世界史の渦に投げ出されたことは確かです。

 

日本だけでなく、世界は

帝国主義という弱肉強食の時代となっていました。

清国も李氏朝鮮も日本と同じ立場です。

 

欧米はいち早く国民国家となり、

自らに有利なルール(国際法)で

アジア・アフリカに迫りました。

 

その背景の実体は軍事力と経済力です。

その中でヨーロッパで出遅れていた国である

大国ロシア帝国が、

日本にとって最大の脅威となります。

 

アメリカのフロンティアの西への拡大は

目にしたことがある方は多いと思いますが、

 

ロシアの東方拡大はあまり知られていません。

最初からあの広大な国だと思っている方は多い。

 

ロシアの初期はモスクワ大公国で

現在はウクライナです。

それが↓

ちなみに「大東亜戦争」は、日本側の呼称で

敗戦後、GHQにより使用を禁じられたということです。

アメリカにとっては「太平洋戦争」だったわけで

 

今も、教科書を含めて疑いもなく「太平洋戦争」

を使っています。

 

  朝鮮は中華王朝の属国だったという歴史


かつて朝鮮には、仏教をプレゼントしてくれた

百済という日本と親密な関係にあった

国もありました。

 

朝鮮は半島にあり、

常に大国である中華王朝が隣にありました。

中華王朝が朝鮮に関わった

軍事的事案は、一説によると千回以上。

 

日本は、日本海という天然の堀が

その防御となりました。

 

朝鮮はその圧力は何度も跳ね返しています。

高句麗や新羅は、唐という大帝国を

相手に奮闘しました。

 

しかし、
朝鮮は、恐らく「李氏朝鮮」の時代には、
完全に中華王朝の属国化してしまいます。

 

中華王朝(「中国」)が大中華とすると
朝鮮は、小中華ともいわれます。

つまり、中華思想の大きな影響下にあり、
それはいまだにあることで、

日本との関係もギクシャクしてきたわけです。

中華思想は、チャイナが世界の中心で

その外に行けば行くほど野蛮な文明となりますから、
小中華である朝鮮にすれば、

日本はさらに野蛮だとなるわけです。

朝鮮にしてみると

「皇帝」は

ただ一人清国のみに存在するのであって、
 

それ以外で

「皇」や「天」がいることが許されないのです。

それは、くりかえしになりますが、

清国が朝鮮の宗主国であり、

朝鮮が属国であったという
歴史をもっているからです。

 

事実日清戦争時には、

清国は歴史的に朝鮮の宗主国だ

とはっきりいっていました。

現在でもその思想が強いのが

朝鮮の中でも

「北」で、「李氏朝鮮」そのものだと

述べている歴史書もあります。

 

さらに、旧ソ連の考え方も入っているわけです。

「南」の韓国も「反日」である野党は

恐らく「北」と通じる思想があるのでしょう。

 

かろうじて現在韓国の与党が、

日本が「韓国併合」の時代に残した遺産を

もっているのかもしれません。

 

 

  「征韓論」が出てきた背景は…

 

もっとも、清が

日本と「日清修好条規」を締結した段階で、
宗主国が日本との対等な関係を

認めたわけですから、
 

それまでの考えを軟化させてもよいわけです。

日本は、近代国家として生まれ変わり、
国際法により

対等な国際関係を求めていたわけです。

世界がつながるようになっている時代には
近隣諸国も含めて
当然貿易や船の航行など相互の理解が必要です。

友好関係をつくるためにも
日本のような近代国家になることが
日朝どちらにとっても有益だというのが、
日本の提案であったと思います。

それを内容を確認する前に排除しました。
日本はこの無礼に怒りました。

政府関係者は、
勝海舟を除いて

皆「征韓論」だったといいます。
 
ところが、さらに当時釜山にあった倭館
(日本領事館の朝鮮の呼び名)門前に

日本批判のビラを貼り、
領事館員らの食糧購入の妨害をするようになりました。

このような朝鮮やチャイナで起こった

日本人の事件を
事実として記している資料は、

意外に少ないのです。

 

知らないということは、

歴史上なかったことになります。

 

もちろん、教科書に載っていないし、

載っているという話も聞いたことはありません。

 

「征韓論」ということばだけが

一人歩きします。

しかし実際には、
日本ではこうした状態を救わなければならない
という声が出てきているのです。

1873(明治6)年に入り、

この動きが連日のように起こっています。
 

西郷隆盛は自分が交渉して道理を尽くし、
それがダメであれば戦うこともしかたがないだろう
と考えていたようです。

突然西郷が言い出したことではありません。

さらに、最初から「征韓論」では

さらさらありませんでした。


それは、

まだ岩倉具視らが欧米視察のさなかの出来事でした。
 

 

今日も最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

 

 

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