近代国家が国境をつくった

国境があります。

当たり前だと思っていましたが、

どうも、国境という概念がでてきたのは

 

それほど古い話ではないようです。

「近代国家」となって初めて国境という意味も

出てきます。

 

「近代国家」とは、一口いうと

国民国家、基本的には民主国家です。

 

ここで、基本的にといったのは、

現代において民主国家とはいえない国家でも

国境は存在するからです。

 

要は、近代国家が国際法を育て、

国境内でその国の主権を行使できるからです。

 

主権は国内的には、法の施行です。

対外的には、内政干渉排除だと思います。

 

部族単位で生きてきた民族に

国境などという考え方は、

なかったでしょう。

 

騎馬民族であったモンゴル、

アメリカ大陸で部族単位の先住民

アフリカ大陸でも考え方は同じだと思います。

陸地や自然は、神のものであったわけです。

 

そこに、近代国家を成立させた

ヨーロッパ人が入り込み、

「所有」という概念を持ち出しました。

 

ご存じのとおり、アメリカは先住民の土地でなくなり、

アフリカは、定規で線を引いたように分割されました。

 

そうした概念は、

開国した日本にも当然持ち込まれました。

 

 

  明治政府は、維新10年間で国境を決めた

 

江戸幕府が、

不平等条約を結ばざるを得なかった最大の理由は、
軍事力の差、それは科学技術の差でもあります。

 

それはそのまま

国民国家ではなかったということでもあり、
 

欧米列強は、日本を文明国として認めなかった

ということになります。

同時に、幕府は「不平等条約」の内容が

当時の世界の常識だったと
思っていたという話もあります。
 

不平等条約締結後、

「万国公法」がアメリカ人の手で訳され、
初めて「不平等条約」であることを

認識したというのです。

 

翻訳したのはアメリカ人で、

アメリカ人というのは、

自分の主張はとことんしますが、

 

一端理解すると本気で友だちになってくれる

ようなところがあると、私は思っています。

 

このアメリカ人を

ろくでもないヤツと

 

フランス人がののしったと、

松原久子氏が述べていました。

 

 

フランス人が悪いというより

当時のヨーロッパ人の考え方の一端を

表していると思います。

 

それは、インドでつくったアヘンを

売ったイギリス人も

同じです。

とにかく、「あとのまつり」です。

以後、

明治政府は、

不平等条約改正を目的とし、
文明国になることを目指した

といってもよいと思います。

世界がすでに

そうしたルールで動いている風潮である以上、
それを受け入れ、必死に追いつこうとしました。

それは、外交の姿勢にも現れています。
それまで曖昧であった国境の策定です。

絶対王政から市民革命を経て

国民国家を形成してきた欧米では、
国境を定めることは極めて重要でした。

それはその範囲であれば、

主権を行使できます。

 

つまり、

国民を守る主権を行使できるからです。

歴史年表を見るとわかりますが、
明治政府は、
維新から約10年あまりで

ほぼ国土の範囲を確定してしまっています。
 

実に迅速で先を見通した、

近代国家としての確固たる意志が感じられます。

国際法でいうところの、

実効支配の及ばない、
つまり誰の土地か曖昧な場合は、
 

無主地先占(先占の法理)が

領土編入として認められており、
日本はこうした国際法に則り、

国境明確化を急ぎました。
 

  国際法を知り、国際法を遵守する明治政府

 

国際法の存在を知った

明治政府の対応は、迅速でした。

 

例えば、琉球の支配です。
江戸時代は薩摩藩と清国の両方に属していた

のが実体でした。

日本は、台湾は清国領と認めるとともに、
琉球の支配権を主張し

1872年琉球藩を置きました。

しかし、琉球藩は、

清国との冊封体制を断ち切ることは困難でした。
 

日本政府は、軍を派遣して廃藩置県を実行し、
1879年に沖縄県としました。

ちなみに、琉球は清側、沖縄は日本の命名です。

1874年には、

台湾で漂流した宮古島の島民66人のうち54人が
台湾先住民パイワン族に殺害されました。

清国は、台湾は化外の地であるとして

なんら対応をしませんでした。
 

化外とは中華文明の及ばない

「蛮族の地」とでもいうのでしょうか。

日本は国際法で対応しようとしています。
清国領地であると日本が認める台湾で

責任を取らないとすれば、
あるいは関係がないというのなら、

自国で国民を守る義務があります。

出兵を決めました。

 

ここに、明治政府の国家としての

確固たる意志が感じられます。


現政府は、

いまだに拉致被害者を救うことができません。
 

少なくとも、

拉致被害者が自分であったかもしれないと
考えるとき、この問題の深刻さがわかるはずです。
 

拉致被害者家族は、

アメリカ政府に頼るしかないのが現状です。

これが現実日本だとすれば、

有事の際、政府は国民を守ることができるのか、
と考えるのが普通ではないでしょうか。

いずれ、明治政府は、

国民を助けるという意志を

行動で表したわけです。
 

すると、

これはイギリスも認め、仲介に入り、

清国は日本に50万両支払いました。

つまり、宮古島は琉球の一部ですから、
清国は、

琉球が日本領であることを認めたことになります。

もう一つ、

1855年の日露和親条約で
日露雑居地であった樺太の問題がありました。

この交渉を担当したのが、
箱館戦争で幕府側として最後まで戦った

榎本武揚です。

当時の樺太は、

ロシアの流刑地としての存在でした。
居住する日本人の被害が絶えなかったのです。

榎本は、アイヌ人女性への暴行事件に対し、
自国で処分したとするロシア側に
 

個人名を含めた詳細な内容を示すよう

追及の手を緩めませんでした。

1875年、幕末から10年を経て

対等の千島樺太交換条約締結に至ります。
 

日本は、面積では1/7ほどの千島列島を得て、

樺太を放棄します。

海洋資源とロシア政策を考慮した結果

であるとされています。
この時すでに、北方4島は、日本領土でした。

ちなみに、先占の法理に基づき、
1895には尖閣諸島、
1905年には竹島の日本への編入を決定しています。

 

一つ一つ、明確にすばやく決断、

解決しているのがわかります。
 

戦後政府は、真逆
といってもよいと思います。

その証拠に現在数々の国境問題があります。

 

「国際法に従い平和的解決を目指します」

という外務省の動画があります。↓

https://www.mofa.go.jp/mofaj/territory/page1w_000012.html

 

 

今日も最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

 

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