フランス革命と明治維新の大きな違いとは

 

  江戸時代の身分とは単なる上下関係ではない

 

江戸時代は、まれに見る平和な時代です。


農民(百姓)が必ずしも貧しい

わけではありません。

町民特に商人は税もほとんどなく
江戸中期以降は、確実に武士階級より裕福でした。
そうでなければ、元禄文化も化政文化もあり得ません。

農民たちでさえ、
一定の年貢さえ納めれば比較的生活には

余裕がありました。
 

むしろ、支配者層10%未満の武士たちより
裕福だと見ても必ずしも間違いではありません。

 

江戸時代が安定してくると

多くの庶民にとってお伊勢参りが

一生に一度の夢であったといいます。

 

貧しくてもお伊勢参りに行く人には

道中の施し(協力)があったようです。

みんなが助け合う扶助の文化がありました。

いや、百姓一揆や打ち壊しが幕末多くなるではないか
という考え方もあります。
 

しかし、基本的にそうした事案が発生すれば
幕府や藩の管理者たちは仕事怠慢として罰せられました。

 

例えば天明の飢饉の際の打ち壊し。
江戸の町では、町民の声を聞くシステムがあり、
 

当時、店子の上は大家、その上が町名主、
さらに町年寄、最高位が幕府の町奉行で、
 

町名主は町奉行に直接会うことができ、
町名主はその下の身分を環視統括する役割でした。

家主たちから

救済米の要求を突きつけられていた

町名主たちは、
救済米の配給を願い出たものの、

通らず天明の打ちこわしとなっているのです。

 

結果どうなったか。

事件は五日間江戸で続き、
これに同情する幕府関係者も多かったといわれます。
 

商人たちは、

旗本たちと結託して米を買い占め隠したのです。

天明の打ちこわしに参加した人々は日に日に増加して
幕府側がこれを抑えることができない

までになっていたとされます。

庶民の要求は、
街中に堂々と文書で

誰の目にも入るような立て札で知らされています。

内容は、生活が成り立ち得ないのは、
幕府の役人と商人がその成立(なりたち=責任)を
果たしていないからだとしています。

この時代、身分制度とは、

身の分つまり役割分担だともいえます。

 

もちろん、朱子学に基づく上下関係は

存在しますが、硬直したものではありませんでした。



そして、

統治する武士身分は高いが

その責任も重いということです。

この結果、10代将軍家治がなくなると
田沼意次及びその派閥は

打ち壊しがおこった件で失脚し、
 

松平定信派が政権を担い、
松平定信は直ちに救済米を配給、

米価格統制政策もとったのです。

 

  共助・公助が存在した役割分担社会

 

天明の打ち壊しにルールがありました。
そのスタートは拍子木。

まるで芝居かなにかのよう。

 

そしてまた拍子木で休憩、また開始。
 

打ち壊しといいつつ秩序がありました。

盗みや人を傷つけることは絶対禁止。
襲うのは、町の商人で米の買い占めをしている店のみです。

予め火事にならないよう、竃の火消しもしていました。
 

原因は、米の高騰で平時の4倍だったといいますが、
この価格は現在の4倍をはるかに凌ぐ

高騰の感覚だというのが
歴史家の磯田道史氏です。
 

基本的に一番貧しいのが江戸の店子という
長屋でその日暮らしをしている最下層の商売人たちで、
 

貯金という感覚もこの当時はなく
その日の売上でその日を凌いでいる
いわば、フリーター的存在です。

同じ天明期、浅間山が大噴火し、
その麓の村では生き残ったのが約1/5の93人。
その付近の名主2人がこの救済に当たります。

 

記録には
「全財産を投げ打ってでも救ってみせる」
「93人ともに皆骨肉の人のつもりでいてほしい」
つまり、皆身内と思っているから何が何でも助けるという決意です。
 

名主は,村の中でも裕福で村の長的存在です。
その財産は,私財ですが私物化しておらず、
その財産は、いざというとき公のために使うということです。

救済のために幕府は、

勘定吟味役 根岸九郎左右衛門を派遣しました。
根岸はこの2人の名主に感銘を受け、
単なる復興再生ではなく、

村が自立できる復興計画を実施します。

例えば、まず、泥排除の土木作業には地元の被災民をあて、
幼い子供にも一日17文を支払う。
川に橋を架けず渡し船による輸送を図る。

すべて、経済的に自立するためである。

中でも際立つのが、生存した村人たちへの支援で、
村の立て直しのため、
 

名主たちは自分たちの村にとどめることも

視野に入れていましたが、
村人たちはやはり自分の故郷へ戻りたい。

そこで根岸が考えたのは、新しい家族を作ることでした。
つまり、妻を亡くした夫とその逆で夫を亡くした妻、
子のない親、親を失った子、それらを37組縁組みし
生活の母体としたことです。
 
幕府はこの2人の名主に

銀10枚と一代帯刀と子々孫々の苗字を許しています。

 

幕府も藩もこうした災害時の年貢の免除など

実際に行われていました。

 

  「フランス革命」と「明治維新」成し遂げた後の運命

 

1789年、フランス革命がおこります。

 

その時日本では
田沼意次が失脚し、松平定信が老中について
寛政の改革の最中でした。
 

フランスでは華々しく「(フランス)人権宣言」が

発せられました。
「人権」という考え方が明らかにされたのです。

翻って日本。
「人権」はのち日本人が翻訳しました。
「人権」ということばはその時誕生しましたが、
 

人を思いやったり、助け合ったりする社会のしくみ。
自分の役割(身分)を果たす責任感と倫理。
カネは何のために使うべきか。

それは「(身)分相応」であり

「身の丈にあったもの」であり
欲は「足るを知る」ものなのであるという

 

文化や高い倫理観が日本人の身体に刻み込まれてきた
日本の歴史が脈々と受け継がれてきていたということです。

これを「封建的」とすべて葬ったのが
戦後民主主義といわれる考え方だったと記憶します。

ペリーが来たとき
武士階級がこの国を救わねばならないと
 

命をかけたのは、

命より重い誇りと使命があったからにほかなりません。

その武士たちは,廃藩置県で滅び、

 

西郷隆盛とともに新しい時代のために
その役割を終えたことになります。

 

新しい国民国家を作るために

血や汗を流した武士階級が

いちばん割に合わなかったということです。

 

「革命」では成し遂げたものが権利を主張し、

「維新」では成し遂げたものが歴史から消えていきました。

 

しかし、武士は消えましたが

その精神、武士道はその後も日本を支え続けました。

フランス革命も明治維新も

近代国家としての「国民国家」という点は同じです。

フランス革命は、

完全に社会を「支配するもの」と「支配されるもの」が

逆転しました。
 

そのやり方は、

この世から支配者を抹殺するやり方で虐殺、

その数200万人といわれます。
フランス革命

ロシア革命に至っては、

革命後も100年間で1億としている資料もあります。

明治維新は、

古い体質(体制)が新しく変わった

ということになります。
 

江戸幕府による体制が

「五か条のご誓文」の体制のように

変わったということです。
 

典型的な江戸城無血開城のように

そのための血は流れなかったのです。

 

ちなみに、江戸時代の百姓一揆は年貢引き下げ、

打ち壊しは、生活をまもるため

のものであって、江戸幕府体制打破

ではなかったわけです。

 

(参照:NHKBS英雄たちの選択「天明の打ち壊し」「浅間山大噴火」など)
 

今日も最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

 

 

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