日本だけが植民地にならなかった原動力は…

 

日本国内にインバウンド(訪日外国人旅行)

要するに日本に来る外国人観光客のことですが、

 

コロナが落ち着いてきて

ずいぶんと回復し、多くなっててきました。

 

 

ペリー来航後の時代、

多くの外国人がやってくるようになりました。

 

日本の「金」を求めてやってきたというのは
前述のとおりです。

 

 

 開国が日本にもたらしたこと

 イギリスが日本を支配することをあきらめた理由

 

 

  開国が日本にもたらしたこと

 

その結果どうなったか。

 

現在とはまったく逆で

どちらかというといいことは

ほとんどなかったというのが

本当のところでしょう。


都市の治安は悪くなり、
経済格差も広がりました。

 

おまけに、コロナならぬコロリ(コレラ)が大感染。

まさにパンデミック。

 

まさに現代と真逆という様子です。

もちろん、オーバーツーリズムなど問題はあります。


コロリ コレラ
コレラワクチン接種など行われていない時代の得体の知れぬコロリ。キンチョー?

スプレーで退散という人が右に。キセルで叩こうという女性が左に見える。

 

治外法権であった日本は、外国人に検疫制度すら

適用できませんでした。

 

コレラ菌は、いくらでも入ってくるということです。

幕末から明治にかけて日本人約37万人が亡くなっています。

 

ちなみに今回のコロナでは日本で約7万4000人

世界では約500万人が亡くなっています。

 

これは、外国人のせいだと思う日本人は当然増えて
外国人を打ち払え=「攘夷」という考えが広まります。

「攘夷」は、華夷(中華)思想、つまりチャイナ=中華、
世界の中心でそこから遠ざかるほど未開で野蛮な民族、国家
という、まさに「中国」に由来する思想です。

東夷、西戎、南蛮、北狄と
「中国=中華」のまわりはすべて野蛮人です。

 

日本も,江戸時代その中華思想を支えた朱子学を
幕府を支える思想と位置づけていました。

ですから、日本が世界の「中心」と考えれば、
外からやってきた外国人はみな野蛮人=夷狄となります。

 

桓武天皇の「蝦夷」征伐は

中央の地方への当時の見方です。

 

この場合の「蝦夷=えみし」は東北地方ですが、

北海道(蝦夷=えぞ)も含めて「蝦夷」です。

 

  イギリスが日本を支配することをあきらめた理由

 

世の中を悪くしているのはすべて外国だという

「攘夷派」は外国人「開国派」を
「売国奴」として抹殺しようとねらうようになります。

勝海舟も何度も命をねらわれ、
その妹が妻の佐久間象山は暗殺されています。

そして、各地で「攘夷」が実行されます。

その一つが「生麦事件」です。横浜近郊の生麦村です。


薩摩藩の大名行列の前に立ちはだかったイギリス人に、
馬から下りて道を空けるよう三度も告げたが、
イギリス人は応じませんでした。

 

たぶん分からなかったというのが

濃厚です。

イギリス人は切られて一人死亡、二人重傷となりました。
イギリスは幕府に処罰と慰謝料を要求し、幕府は陳謝し、
10万ポンドを支払いました。

イギリス政府は、犯人逮捕に応じなかったと

さらに鹿児島を砲撃し、
1万5000人が犠牲となりました。

薩摩藩は、幕府から借用の上
要求された2万5000ポンドを支払ったということです。
 
日本の法律に従えば、イギリス人に非があります。
 

日本の怒りは頂点に達し、
幕府は全ての条約締結国との条約破棄を通告し、
全外国人の撤去を要求したということもあったそうです。

 

実際イギリス本国では、

日本のこの時代の習慣としての礼儀を

説明されて、最初の過ちはイギリスにある

という論調もあったそうです。

攘夷が何度か繰り返された後、
1864年、
英米仏蘭連合艦隊が

前年の長州の攘夷に反撃して下関を砲撃し、
下関は焼け尽くされ、砲台も占拠されました。

ちなみに、この砲台は
現在パリで見ることができるそうです。

ここで、さすがに日本人は

「攘夷」は不可能と実感します。

 

長州藩(山口県)の

いわゆる長州ファイブも同じです。

 

伊藤博文、井上馨、井上勝、山尾庸三、遠藤謹助

は、国禁を犯してイギリスへ留学し、

日本との文明・科学技術の差に衝撃を受けました。

イギリス

この留学が政治家伊藤博文に与えた影響は

誰も疑わないと思います。

 

井上馨は、行く前は強烈な攘夷派。

その考えは、ヨーロッパの現実を見て

帰国して開国と180°変わりました。

 

そのコロリと変わったと

みられても仕方がない態度に

常に暗殺の対象でした。

 

実際何度も死にかけています。

 

その姿は日本で攘夷を叫ぶ者が見れば

裏切り者でしかありません。

しかし、国内の空気も現実を

悟るようになります。


「攘夷」は不可能、と知ると、向かう先は、
「討幕」へと変わっていきます。

イギリスは、日本の武力に勝るものの
支配するまでには恐らく手痛いコストを払わなければならないと
判断、植民地にすることをあきらめたとされます

イギリス商社と結びついた坂本龍馬が
幕府側の薩摩藩(鹿児島県)と

攘夷派だった長州藩を結びつけます。

軍として勢力は、

幕府が薩長を圧倒していたといわれます。
しかし、徳川慶喜は、「大政」を「奉還」します。

歴史的に見れば、

大英断ではなかったのではないでしょうか。
 

このことは、幕府を軍事支援するフランス
薩長を支えるイギリスに
日本支配のスキを与えなかったことになります。
 

英仏は、その国の内乱を誘発し、
統治できないことを理由に背後から

支配を強めていくことが常套手段でした。

 

イギリスが日本を支配することをあきらめた

理由は何だったのでしょうか。

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