日本人は黒船を目の当たりにした

 

 

ペリーの前にもアメリカ船は多く来航していた

ペリーはこれまでのアメリカ船と違っていた

 

  ペリー来航前多くのアメリカ船が日本に来ていた

 

実は、

ペリーより早く日本に上陸したアメリカ人がいました。

1791年、ジョン・ケンドリックというアメリカ人で、
紀伊半島南に11日間停泊した記録があるそうです。

 

アメリカ移住者の子供として生まれた

ジョン・ケンドリックは、最初捕鯨船に乗っていたようです。

ハワイからマカオを経て

 

日本に来たときは、違法と知りながら

動物の皮?を売ろうしたようですが、

日本人は全く興味を示しませんでした。

ケンドリックは、アメリカ国旗を押し立て、
その紀伊大島の領有を主張したといいます。
 

いかにも先住民の土地を奪って

領土(フロンティア)を広げてきた

アメリカ人らしいやりかたです。


その後、商船モリソン号が

神奈川県浦賀に来ます。

 

漂流民7名の帰国と引き替えに

通商と布教を計画していましたが、
イギリス軍艦とまちがえられ、
外国船打払令のため砲撃を受けます。

1846年には

東インド艦隊ビッドルが軍艦2隻で来ました。

 

それは、

1840年アヘン戦争で超大国「清」がイギリスに敗北、

1842年南京条約で

不平等条約を締結することになった数年後です。

 

イギリスが清と不平等条約を結んだのを見た

他のフランス、ロシアに混じりいわばアメリカも

次々と不平等条約を結んでいました。

 

日本の江戸幕府は、清がイギリスに敗北した情報を

オランダ風説書でいち早く知り、態度を一変します。

 

つまり、今まで外国船を見たら鎖国を理由に

大砲をぶっ放していました。(外国船打払令)

 

それを、船の燃料の薪や水くらいは支給しよう。

(薪水給与令)というわけです。

 

ビッドルは、浦賀には来ていますが、

上陸はできませんでした。

 

幕府の回答は、

「長崎(県の出島)へ行け、

鎖国をしているから通商はしない」

 

日本には貿易をする意図がないという情報を得て

アメリカは,次の手段を考えたわけです。

 

 

  ペリーはこれまでのアメリカ船と違っていた

 

このように、アメリカ船は、何度も日本を訪れています。

もちろん、アメリカだけではなく

オランダ船はもちろん、

ロシア、イギリス

しかもいちどだけではないことは、

前回も述べました。

 


しかし、

ペリーの時だけ、「黒船ショック」、

誰もが一度は聞いたことのある

「泰平の眠りを覚ます上喜撰(蒸気船)、
たった四杯で夜も寝られず」   

「上喜撰」とは、上等な煎茶で、カフェインで眠れなくなるんで

その「上喜撰」と「蒸気船」をかけたのは、授業でよく習います。

 

とにかく、

桁違いの衝撃が日本を駆け巡りました。
 

なぜなのでしょうか。
とは、教師の時の私が授業で取り上げる問いです。

私自身が、不思議でならなかったのです。

すると、そこにはそれまでと大きな違いがありました。
 

一つは、4隻の軍艦、
そのうち2隻は蒸気外輪フリゲートのサスケハナとミシシッピ、
他は帆船でした。

翌年1854年の時には、
ポーハタン号を含む蒸気船3隻と帆船4隻でした。
この外輪蒸気が煙をはく姿は、

日本人にとって初めて見るものでした。

 

この時は、この蒸気船を

神奈川(県)沖で
間近に見ることができたのです。
 

もう一つは、

軍艦としての圧倒的な200年の力の差の誇示です。

海は元寇の時のような防波堤ではなくなったことを

思い知らされた瞬間だったと思います。

 

しかも、

ペリーの態度は

これまでのアメリカとはまるで違っていました。



…今日はここまでにさせてください。

 

今日も最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログへ
にほんブログ村