幕末の日本は清国と何が違ったか

 

常々思うことがあります。
現場でどのように努力しても
トップの無知と無理解で報われないことは
いくらでもあるし、不条理はあるものだと。

 

6月に辞任するといったとある県の知事のあいさつを聞いて

 

「朱子学」を思い出しました。

朱子学には、手足は頭に使われるからレベルが低い

という考え方があります。

 

つまり、この知事の発言の根底に

この思想があるのではないか。

 

もっとも、最近では

手先には目の感覚があり、それを脳に伝えている

腸の判断が脳の機能を助けている

こともわかっていて、

 

手足が頭に使われているということではない

ことも分かってきています。

 

本人そのつもりはないといっても、

あきれるというか、そう思っていること自体

人を指示する立場の人の見識かと…

 

列強に一歩も引かなかった幕臣たち

イギリスは日本もアヘン漬けにしようと思った
 

  列強一歩も引かなかった幕臣たち

 

幕末から第二次世界大戦までは実は、
「大東亜戦争肯定論」の著者でもある林房雄氏には
「100年戦争」であったと見えていたようです。

「大東亜戦争」ということば、

さらに「肯定論」とくると
 

戦後民主主義で育った多くは、

まず直感的に毛嫌いし、拒否反応を起こし、

中にはアレルギー反応を起こす人もいて


次に「侵略戦争」を肯定する人物として

人格を疑うと思います。

 

林氏が著作を世に出した昭和の高度経済成長期

おそらく、

この著作を手にした人はどれほどだったのか。

私も理解してきた歴史が

戦後民主主義そのものだったので
その一人でした。

 

しかし、

まずは右も左も読んでみて

自分の頭で考えるようになると

自分も日本人であることを改めて自覚し、
単純に日本の「侵略戦争」
連合軍が正義の民主主義陣営とは、いえないことに
いやが上でも気づかされることになります。

この幕末という時代
そして江戸幕府自体
 

平和ボケしていて、考え方も古かった、では
ないこともわかってきました。

名も知れぬ、当時のいわば官僚であった
ハリスとの交渉責任者である旗本、水野筑後上忠德や
ロシアのプーチャーチンらと渡り合った

川路聖謨(トシアキラ)らがいます。
 

どちらも、命をかけた努力で日本を守ろうとしました。

しかし、とうていこの世に未練なく去ったとは

いいがたい最後でした。

結局、ハリスの「実物経済」のゴリ押しが

日本の「信用経済」をつぶしていきます。


この当時、江戸時代の

金貨:銀貨の国際比率は1:16(資料により若干差あり)、
これをハリスは幕府に伝えてはいないのです。
 

(ここからがややこしいのですが、)
したがって、日本で銀貨4枚で金貨(小判)1枚を交換して、
マカオで銀貨に交換すると16枚となる。
 

それを日本に持ち込んで金貨と交換すれば、
金貨4枚となる。
これを繰り返すとどうなるか。

言うまでもなく、

日本の金が海外へ大量に流出する。

実際そうなったわけです。

それだけでなく、

西洋人でさえ「ヨーロッパの屑」と呼ぶような
いわゆるゴロツキが多く来日するようになります。

マカオと日本を行き来するだけでが増えるのです。
日本で飲んだくれてピストルで撃ち合いになり
犠牲になった日本人は数多くいたとされます。

しかし、裁くことができなかったのです。
あまりの惨状にピストルを押収したものの

「所有権があるから返せ」といわれて

スゴスゴ返却した例もあるといいます。
松原久子著「驕れる白人と戦うための日本近代史」(文藝春秋)

 

 

  イギリスは日本もアヘン漬けにしようと思った

 

こうした失政は、
阿部正弘の幕政への

各藩の意向傾聴による幕府威信低下も

含めてありましたが、
 

おおむね軍事力もない中で、
幕臣官僚たちによる胆力と人間力で列強と渡り合っていたと
原田伊織氏はその著作で述べています。

「官賊と幕臣たち~列強の日本侵略を防いだ徳川テクノクラート」(毎日ワンズ) 

 

むしろこうした幕府の姿勢の足を引っ張ったのが

尊皇攘夷を叫び、テロを重ねた薩長ら反幕府派だと

原田氏はいうのです。

また、前代未聞のアヘン戦争で清を侵略したイギリスも、
その後イギリスの世論にも押され、
露骨な日本の侵略意図はなくなっていたともいいます。

 

イギリスにも現代の日本人の感覚で

まともな人はいたわけです。

それだけではありません。

 

高度な政治支配と、

各藩がもつそれぞれの軍事力も侮れず、

戦争に勝利してもその代償は計り知れず、
 

簡単にこの国を支配することは困難だと

イギリスは結論づけています。

 

ということは、なんだかんだといいながら

徳川軍事政権(武士としての政治家)も含めて

日本という国が一つにまとまっていた

ということになると思います。

 

尊皇思想は、ナショナリズムでもあった

といってよいのではないでしょうか。

 

清では役人に対して

簡単に賄賂で販路を拡大できた

アヘンでしたが、

 

日本では、

同じことが全く不可能だったようです。

 

日清戦争後、李鴻章は

いずれ日本もアヘンに手を焼く

と捨て台詞を残したそうです。

 

日本領となった台湾には相当数の

アヘン中毒者がいました。

 

当時台湾を統治していた後藤新平は

中毒者のみ特定の場所での吸引を許可し、

それ以外は厳禁として反乱を防ぎ、

最終的には皆無となったとされています。
 
日本支配は、すでに戦国時代、
スペイン、ポルトガルらイエズス会が

ねらったところです。

彼らは、教皇の先鋭部隊でした。
宣教師を送り、鉄砲に必要な硝石を売る。

それは、キリスト教改宗とセットであり、

最後に軍事力で支配する。

 

南米のインカ帝国を支配したピサロ。

アステカ文明をコルテス。

 

日本もそうなるはずだったのです。

しかし、秀吉はこれに気づきました。

ポルトガル人が

日本人を奴隷として海外に売っており、
それを指摘した秀吉に

 

ポルトガル人コエリョは、
 

それは、日本人が売るからだと反論し、
秀吉の激怒を買ったといいいます。
 

1587年宣教師は追放となり、
徳川の時代、段階的に

スペイン、ポルトガルは閉め出されることに

なりました。
 
鎖国政策というのは、

以前も述べたように

のちにドイツ人のケンペルという学者が用いた

(ドイツ人だがオランダ人として入国したか?)

ということであり、
 

鎖国政策は、徳川幕府の

貿易管理とイエズス会の対外支配排除に

ありました。 

     

そして、明治維新は、イギリスのグラバー商会が操り、
薩摩と長州を結び付けた結果であるとしていると

原田氏は述べています。

 

グラバー商会にはまだナゾも多いといいます。

こっちに入っていくと

世界史のナゾというか闇に入っていきます。

 

グラバー商会は清国(広州)に設立された

ジャーディン・マセソン商会の代理店。

長崎にその支店がありました。

 

貿易商社で設立当初は、

清国へのアヘンの密輸とイギリスへの茶の輸出で、

サッスーン商会とともに

「アヘン戦争」に深く関わったとされます。

 

ですから、日本に来たグラバーも

そうした意図はあったのではともいわれます。

 

イギリスが、アジア諸国の反政府勢力に加担し、
その政府を転覆させ、

その国を支配することは当時の常套手段でした。  

 

しかし、

幕府は幕府で新政府構想をもっていました。
結果として大政奉還は内乱を防ぐこととなった。

 

また、坂本龍馬は、最近はグラバー商会の手先

という説もあります。

 

グラバーは恐らく龍馬たちに莫大な資金を貸し、

武器や船舶を提供しました。

 

結果として破産しているというのが、

私の現在の調べですが、

調べていくうち変化するかも知れません。

 

いずれ、

明治維新に大きく関わっています。

 

日本人を妻にし日本で没しました。

明治政府から勲章を授与されています。

 

グラバーは初め「イギリスの手先」であったのか、

それが「日本の味方」となったのか?

 

大連合国家の構想は、坂本龍馬のものではないか、

だから、幕府と薩長両方から怪しまれ、うとまれ

暗殺という結果となったのでは

というのは私の勝手な推察です。

 

薩長らは、徳川家康との関ヶ原の戦いにおいて、
豊臣方について敗戦、外様となりました。

明治維新は三百年の恨みが結果となった

という歴史観もあるとうことです。

 

一つだけいえることがあります。

日本という国に培われてきた

 

高い倫理観・徳性

そして、一体感です。

 

その一体感こそ

皇室が果たしてきた力は計り知れません。

 

それがこの国の骨髄であり、

これまで他国が侵すことのできなかった

巨大な力だったはずです。
                                                               
今日も最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

 

 

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