江戸幕府は海外情報を独占していたはずだったのに?

 

19世紀の幕末からの歴史を述べています。

 

このブログコンテンツでは、

従来の世界史・日本史の別を超えて、

日本人のための世界史を目指しています。

 

昨日(2024=令和6年3.28)、NHKで「プロジェクトX」が

復活するという特集番組が

ありました。

 

18年ぶり復活第一回が

「スカイツリー」ということでした。

 

その中で、634mの高さでかつ敷地面積も狭い

地震対策と採用されたのが、

法隆寺五重塔の免震装置だというのです。

 

五重塔の中心に「心柱=しんばしら」があり、

地震の揺れを塔内で吸収してしまうのだそうです。↓

https://web-japan.org/kidsweb/ja/hitech/16/skytree.html

 

つまり、21世紀の最新超未来型タワーは

日本の1300年前の寺院建築の技術を

模倣しているということです。

 

これこそ、わが日本の誇るべき歴史の真価だと思います。

歴史を学ぶ意味の一つがここにあることが

おわかりいただけると思います。

 

現在日本は、内外の要因で国難となっています。

同じように国難といえるのが、

幕末です。

 

その対応を知ることは、

現代の国難に対処するために

必ずや参考になるはずです。

 

問題は、国難と感じている国民が

どれくらいいるかということです。

 

なぜならば、国難にさしかかったときに

その国の存亡をにぎるのは、国民一人一人だからです。

 

それは、同じように斜陽にあったアジアの大国

オスマン帝国、清朝、そして江戸末期の日本

この三つの国で復活し独立を維持した国がどこか

考えれば、答えは出ています。

 

  いち早く正確な海外情報を得ていた幕府

 

現代の日本の体質にも通じるところがありますので、
19世紀江戸時代の外交を中心に

できるだけ簡単に述べていきます。

 

幕末の大事件といえば、

ペリー来航と誰でも口をついて出ると思います。

 

しかし、

ペリーを迎える前に

様々な外国船がきていました。

 

1808年のフェートン号事件は、前に述べたように

対応にあたっていた佐賀藩(佐賀県)が

厳しい処罰を受けています。

 

しかし、その前にも

すでに様々な外交に関わる事件がありました。
 

「鎖国」という幕府情報独占の中で
林子平ら多くの学者たちは、「海防」を訴えています。

 

それしにしても、この時代どのようにして

情報を手に入れたのか。

それ以上に、危機意識と情報分析による

危機対応を行う一般民間人がいたわけです。

 

幕府はこれを蛮社の獄として

取り締まっていきます。

 

政治は幕府の特権であり、

政治家に任せておくべきで

それ以外が口を挟むことは御法度の時代です。

 

それでも、国家の危機にだまっていられなかった、

そういう匡人(きょうじん)がこの国には育っていました。
 

  露呈する幕藩体制維持という矛盾

 

では、幕府は何もしていなかったかというと

そうではありません。

 

1641年幕府は
全国沿岸各所に「遠見番所」を設けて

海岸警備体制を整えています。
確かにその時は、「キリシタン禁制」が目的でした。

しかし、それから世界情勢が大きく変化したにもかかわず、
むしろ幕府は、「鎖国体制」の「祖法」死守が原理として

あったわけです。


時代の現実を見誤ったことは事実ですが、

それを認めることは、幕藩体制崩壊を意味します。

 

つまり、時代の流れで幕藩体制維持は困難で

しかし、幕藩体制を維持することは

時代の流れに逆行することになります。

 

それは、矛盾そのものであり、

「外国船打払令」は、その典型です。
 

それによって、アメリカの「モリソン号」は帰国し、
さらに、アヘン戦争の情報を得て

「薪水給与令」に緩和していたものの、

1846年、

再度通商が可能か確認にきた

東インド艦隊司令長官ビッドルには、
通商は国禁、しかも交渉は長崎でしかしないとして、
 

それまで交渉によって通商を開こうとしていたアメリカを
強行策へと転換させる結果となったのです。

実はその前にも
同じように通商を求めてきて幕府から

何度も拒否されたロシアも同じでした。
 

それは、

露寇という事件に象徴されます。

元寇は習っても露寇というのは、初めて聞いた

という方もいるでしょう。


それは

1806年~1807年に

ロシア軍が蝦夷近辺を襲撃した事件です。

ロシア帝国の外交使節であった

レザノフの部下である
フヴォストフによる事件であることから、
ロシア側ではフヴォストフ事件と呼んでいます。

こうなったのには、次のような経緯があります。

あまり知られていませんが、
1778年にはヤクーツクの商人ラストチキンが来航しました。
 

蝦夷地域を統治していた松前藩に対して
開国要求を行いましたが、拒否されます。

1792年にはラクスマン(軍人)が
アリューシャン列島で漂流者していた
大黒屋光太夫らと出会い、
 

彼らを送還するとともに

通商要求の信書を手渡すことを目的に
根室に上陸しました。

幕府は通商交渉に対して拒否しますが、
長崎の入港許可証を渡す形となりました。

当時老中の松平定信は

ロシアとの交渉を視野に入れていたと考えられ、
 

ラクスマン一行に対して丁重な対応をするよう
松前藩に命令を出していたようです。

この時も松平定信はロシアの情報を

得ていたと見られます。

その後
1804年レザノフは正式な大使として幕府に対して
通商を求め長崎に来航しました。

その時、ラクスマンが受け取っていた
長崎への入港許可証を持ってきたのです。

ところが、
レザノフをほぼ半年間も幽閉しました。

その上、結局通商を認めませんでした。
 

対応も極めて無礼で屈辱的だったといわれます。

松平定信は、寛政異学の禁を出すほどの
朱子学にどっぷりつかっていた人でしたが、
外交における判断は、冷静だったと思います。

しかし、

松平定信の意向は、継承されていませんでした。

1806年、レザノフに命じられたフヴォストフは
 

松前藩樺太を攻撃し、兵糧や船を焼き払います。
 

連絡手段をたたれた幕府は

事件を翌年までこの事態を把握できませんでした。

襲撃を受けて幕府は松前奉行を設置し、
総司令官の任務を与えて防衛を図ります。
 

津軽藩(青森県)・秋田藩

・南部藩(岩手県)・庄内藩(山形県)から兵を集め、
3000人による警護体制をも整えました。

しかし、旧式の軍備であったため、
ロシア軍になすすべもなかったのです。 
幕府の権威は揺らぐことになります

日本はロシアへの脅威からむしろ、
鎖国体制をさらに強化することになります。

国防も強化されますが、

それがあの外国船打払令です。 

情報は、正確に得て分析していたにもかかわらず、

対応は、全くお粗末でした。

 

なぜなのでしょうか。
江戸幕府を支えるはずの「朱子学」が
大きな障害になっていたようです。

 

それは、同時に通商による計り知れない

欧米の厄害についての不安も
拡大させることになります。

 

今日も最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

 

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