「鎖国」にみる変化する時代への対応とは

 

清大帝国と前回書いたのですが、
つかさず「清大帝国」という名称は聞いたことがない、
と鋭いご指摘をいただきました。

本当は、大帝国となった清
清という大帝国という意味で表したかったのですが、
テーマが長くなりそうで、
大帝国、清くらいがよかったかも知れません。

いずれ、ありがとうございます。
毎日更新していると、一度落ち着いて見直す
という作業がどうしても怠りがちになります。

ただ、歴史の事実については、
前回の「三跪九叩頭の礼(さんききゅうこうとうのれい)」

三回ひざまずいて九回頭を地面にこすりつける
という、ホントはもっと面倒で
詳しくは、ウィキペディアででも調べてみてください。

をマカートニーがやったかやらなかったか
文献で全く異なる事実があります。

このように、正しい事実というのは、
数値もそうですが、基本的に幅があったり
場合によってはまったく逆だったり

これが正しい歴史などどこにもない
といわれるゆえんです。

ただ、それをいっていると、
じゃあ意味ないじゃん、とくるので
 

そうではなくて
資料を通して、事実を検証し、
場合によっては推理して歴史を表し、
歴史観がつくられていくのではないか、
そしてそうした努力は必要です。

ちなみに清は、
漢人の国家ではなくて満洲人(女真族)で
チャイナ領のほか、ウィグル、モンゴル、チベット
も征服しています。

現チャイナのいう中華の領土回復とは
この清のことのようですが、
 

実際には世界全部がチャイナの領土、
どうもそう考えているらしく
これが、中華思想だともいえます。
 

日本はどうか。
領土拡大なんてさらさら考えたこともないでしょう。

例外はいますが。
 

 
 

「鎖国」といったのは日本人ではなかった

「鎖国」こそ正しいという幕府

  「鎖国」といったのは日本ではなかった


江戸幕府は、「鎖国」をしていたことになっています。
どういうことかというと、


鎖国は、江戸幕府が計画的・意図的に行ったというより、
キリスト教(カトリック)の植民地政策に対する
結果論的な政策であったということです。

そもそも、家康は、
イギリス人ウィリアム・アダムスを外交顧問として、
貿易振興を旨として朱印船を奨励していました。

東南アジアには日本町さえありました。

その後、家光は、外国との窓口を長崎に限りしかも、
交易はオランダと清のみとしました。

といってこれが正式な国交ではなかったのも事実です。
あくまで交易です。

5代綱吉に拝謁した

ドイツ人医師エンゲルベルト・ケンペルは、
次のように語っています。

この頃になると日本はヨーロッパ諸国に
恐れより興味を持つようになっていた。

その著書「日本誌」にあるそうです。

その序文に日本を「閉じた国」とあり、
19世紀になってその序文が翻訳された時に
「鎖国論」との標題で出版されたのが「鎖国」の始まりだと、
松方冬子氏が「オランダ風説書(中公新書)」で述べています。

同著によれば、実は、長崎以外にも

 

窓口は全部で「四つの口」があったといいます。

対馬口-李氏朝鮮
薩摩口-琉球
松前口-アイヌ
とそれぞれ通じていました。

18世紀以降定着し、固定化していきます。

始め「鎖国」は、キリシタン禁教の一環としての
政策レベルの問題でした。

それが定着していくに従い、
18世紀末には、
「鎖国」体制の問題になっていたとも述べています。

そして、この時期、ロシア船やイギリス、フランスの測量船、
アメリカの捕鯨船などが日本近海に現れるようになります。

ヨーロッパでは、これまで述べてきたように
大きく国の実情、形態が変わっていました。

産業革命というイノベーションが起こっていました。

しかし、日本では
「体制」となった「鎖国」を
これまでどおり継続すべきという「鎖国祖法観」
となり定着していったというのです。
 
 

  「鎖国」こそ正しいという幕府

 

時代が変わったことを告げる事件が起きます。

1808年のフェートン号事件です。



ヨーロッパでのナポレオン戦争中、
オランダはフランス領となり、イギリスと敵対していました。

イギリスが東アジアのオランダの拠点を

奪おうとして活動していたその頃、
 

イギリス船は、

オランダ国旗を掲げて長崎港に侵入し、
 

オランダ人二人を人質にして、

その上薪・水や食料などを要求し、
 

日本側はなすがままにされたまま、

イギリス船は去って行きました。
 
この事件の責任をとって長崎奉行松平康英は切腹、
長崎警護役の佐賀鍋島藩は、処罰されました。

この時代の武士の責任の取り方は、
実に厳しいものです。

 

現代でも経営者(社長)がしっかりしないと

社員を路頭に迷わせてしまいます。

どこかの国の政治家のように
「知らなかった」では済まされないのです。

この事件を機に
「外国船(無二念)打払令(1825)」が実行されます。
 
この間、1792年ロシアもやってきます。
ラクスマンが大黒屋光太夫を連れて、
1804年にはレザノフが通商を求めてきました。

ところが、幕府は
「祖法」を盾に外交上無礼な仕打ちをします。

1837年にはモリソン号が

やはり7名の漂流民を乗せてきますが、
 

商船に対して砲弾を撃ち込みかつ、
相手は無傷のまま帰国しました。

国内では、

早くから海洋国日本の国防を説いた林子平が
蟄居の上、不遇のうちに没しました。
 

高野長英は、「夢物語」にして外国船を打ち払う危険を説き、
渡辺崋山は「慎機論」を原稿のままにしていたそうですが、
これを発見して幕府は弾圧しました。

幕府側にあったのは、
朱子学に基づく「祖法」という先祖代々の、
現実を無視した「原理」です。

これは、朱子学による大きな弊害でした。
朱子学では、「知先後行」のように
現実を無視した知識(理想)が横行するようになります。
要するに「原理」主義に陥ります。

実際、その先祖代々の元、
家康の時代は「鎖国」ではありませんでした。
 

 

今日も最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

 

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