江戸時代に現代の日常があった

松原久子著 田中敏訳
「驕れる白人と闘うための日本近代史」(文藝春秋)
という、もの凄いと私が思う本があります。

 

「訳」とあるのは、松原氏がドイツ語で書き、出版したためです。

平成13年の『正論』(産経新聞社)の中で
松原氏が次のような話を載せていると、
訳者の田中氏がまえがきで述べています。

 

ドイツのテレビ番組に松原氏が出演したことがある。
討論番組で「過去の克服-日本とドイツ」がテーマだった。

 
ドイツ代表は、日本がアジアで犯した蛮行をドイツのホロコーストと同一視し、イギリス代表は、日本の捕虜虐待、アメリカ代表は、生体実験や南京事件を持ち出し、それぞれ日本を攻撃非難した。

松原氏は、四方八方の攻撃に反論した。ドイツのホロコーストは戦争と無関係の民族絶滅を目的とした虐殺で、日本にはその発想すらない。
イギリス代表には、イギリスが日本人虐待した事実を、アメリカ代表には、百以上の日本の都市無差別爆撃を指摘した。

 

番組が終わって、帰る途中に人混みに混じって
中年の女性が近づき、「我々のテレビで我々の悪口を言うものはこれだ」というなり、平手打ちをして去った。

松原氏は「言挙げせよ 日本」とアメリカでも
日本の(正当な)弁明を続けているということです。

今日はその著作を土台にして、
江戸時代の日常を述べていきます。

 

 
 
 

江戸は世界一の大都市

世界最高度の文明であった江戸時代

 

  江戸は世界一の大都市

 

江戸の人口は、18世紀前半で100万人、
18世紀中頃には150万人を超えていたとされます。

日本の当時の人口構成は、
武士7%、農民80%、商人と職人で10%、
残りがどの身分にも属さない神官や僧、

さらには穢多・非人です。

しかし、江戸の人口の約50%は武士またはその家族でした。
それは、参勤交代があるからです。

商人たちの人口の割合もほぼ武士と同じ50%だったといわれます。
つまり、江戸は、巨大な消費都市でした。

このことは、地方が生産都市であるのに対し、
東京が消費都市である点では、今も変わりません。

東日本大震災や能登地震はいわば、生産都市が
破壊されたことになります。

そういう意味では、復旧・復興に時間がかかるのは
仕方がないのかも知れません。

能登は、日本の伝統産業の宝庫で
老舗の50%以上を占めるともいわれています。
日本中で応援していく必要があると思います。
まずは、忘れないことが第一と考えています。
 
当時、武士は、商業を賤しいものとしました。
それは、朱子学の影響であることは
これまで述べたとおりです。

江戸幕府の経済の柱は米中心の自給自足経済であり、
それが武士の給料でもありました。
大阪
ですから、

農業経済の柱である農民は2番目で
商人たちの身分は、最下位でした。

ただ、その分制約も少なく、
自由で独自の成長を遂げることができたことに
大きな意味がありました。

実際、商人や職人は、
江戸の武士70万人以上の生活を

支えなくてはならない存在です。

食料はもちろん、
衣料や住居に関わる
あらゆる生活用品が必要となります。

すでに、通貨も全国で通用し、関所はありましたが、
信長の時代にすでに通行料の支払いはなく
自由に行き来できました。

秀吉の時代には度量衡も整備され、
長さ・重さ・量は統一されており、
全国どこでも自由に取引できました。

度量衡だけではなく、商品の規格化も進み、
例えば畳は、全国どこへ行っても、身分の差を超えて同じで、
すぐさま取り替えることができたといいます。
 

  世界最高度の文明だった江戸時代


江戸時代は、封建時代で地方である藩が
いわば、国家でしたが、
 

日本の場合、関所はあっても関税がなかったことは
すでに次の時代の準備を成す意味がありました。

武士は、大坂に蔵屋敷を構え、米を船で運び、
そこで換金しました。

運ぶのも、換金するのも皆商人です。
換金は札差といわれる両替商で、
利鞘で利益を得ていました。

米だけではなく、地方の特産物である海産物、
果物、乾物、油、塩、薬、紙など
ありとあらゆる生活必需品、酒なども

東北から日本海を経て大坂(大阪)、江戸への西廻り、
逆に太平洋から江戸、大坂へと東回りも可能でした。

大坂で取引された価格は、なんと江戸へ
8時間あまりで伝えられました。
驚いたことに、手段は旗です。

山の頂上や各要所に旅籠屋が設置され、
毎日のように伝えられたといいます。
ただし、箱根界隈は、難所でここだけは、走ったそうです。

17世紀後半には、両替商といわれる銀行ができ、
数十年で全国的な金融機関となり、顧客に信用貸しつけをし、
抵当権を設定し、
手形を発行、商品取引、先物取引をしていました。

ドイツ在住の作家松原久子氏によると、
当時イギリスやオランダを除けば、
日本が最先端であったことはまちがいないということです。
 
陸路では、東海道は53次、つまり、53か所に宿舎が整備され、
お風呂があるのは当たり前で、
温泉もあり、かつ郵便つまり、飛脚も備わっていました。

江戸と大坂は、通常6日、
いわゆる速達では3日で届いたということです。
 
寺子屋は、農民だけではなく、
商人たちも独自で運営し、読み・書き・算盤だけではなく、
音楽、詩歌、地理、歴史まで教えていました。

識字率は資料にもよりますが、
男子は75%、女子が30%を下らないといわれます。

これは、恐らく世界一です。
さらに、通信教育の営業まであったといいます。

人々は、落語や芝居を楽しみ、
旅行さえブームでお伊勢参りには、旅のお供なしの
女性一人でも安心だったというほど治安もよかったようです。

幕末、日本に来た外国人たちは、
カギもかけずに外出し、金銭を宿舎に置いたままでも
決して盗まれることのないこの日本を
驚きをもって記録しています。

 

 

 

江戸にはすでに水道設備もあったし、

 

この時代、

フランスのパリやイギリスのロンドンなどの都市は

清潔とはいえず、

 

江戸は、ゴミも汚物も全て再利用される

究極のエコ都市でもありました。

 

 

日本は、すでに近代化に向けて、

地盤が固まっていたといえるでしょう。
学問水準も高かったことは、いうまでもありません。

今日も最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

 

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