財政再建 歴史は答えが明白だ

 

「成金」というのは、聞いたことはあると思います。
要は、にわかに羽振りがよくなった金持ちのことで、
半分以上は、侮蔑の意味があると思います。
 

後半分くらいは、

自分もあやかりたいという嫉妬、かもしれません。

もともと、将棋で「歩」が相手陣地に入って
「金」ならぬ「と」金となるところからきているらしいです。

英文学者だった外山滋比古氏が、
週刊誌かなんかで財テクの話を書いたらとたんに
品位が下がったかのような批判が殺到したと
ご本人が書いていました。

「カネ」は汚いもの。
どこか日本人には、あるのかもしれません。
たぶんその元は江戸時代で、商人が士農工商の最下層にあった
ことでもわかります。

ものをつくらないで、儲けるのは汚い
これが朱子学の考え方に合ったことは確かです。

何度か取り上げていますが、司馬遼太郎氏の言葉をお借りすると

「朱子学が毒で、日本は皮膚くらいを侵されている程度だったが、

清朝、あるいは李氏朝鮮は、骨髄まで侵されている」

ということになります。

江戸時代すでに日本には「商人道」がありましたし、
明治時代になってからは、

渋沢栄一は「論語と算盤は一致すべき」
 

と儲ければいいのではなく、倫理と一致すべきもの
と日本経済の哲学が確立されていきます。

 

 

 

お金は汚いものではなくて必要なもの
そのお金を血液のように世の中を健康にするのが

経世済民の経済。
 

血液検査でわかるのが遅く

脳梗塞や心筋梗塞を起こすのは
お金ではなくて人の生活習慣です。

外山滋比古氏は著書で次のように述べています。
 

「結果、個人として働くことを面白がり、自分で考えて工夫を凝らしたことへの対価としてのお金を受け取るという感覚がなくなっていく。」
「むしろ日本人の多くは、「定年後」という冬の時代の厳しさをマジメに考えず、何となく働き続ける<キリギリス>になってしまったのではないだろうか。」


アリだと思っていたらキリギリスだったというのですから

厳しい現実です。


外山滋比古氏は「お金は大事なもの」と述べています。

 

 

 

 

 

質素・倹約で増税こそ財政再建は正しかったか

経済成長は幕府を滅ぼす?

 

  質素・倹約で増税こそ財政再建は正しかったか


家康の政治の理想とは何でしょう。
その思想的支柱は、朱子学です。

国を束ねるふさわしい王であることが求められ、
人間には上下があるとしています。
それが朱子学です。

つまり、江戸時代の身分制度が具体的なその支柱です。
国を指導する武士、食を支える農民が次の身分、
 

生産に携わらず、モノを移動するだけで
利益を上げる商人は最下層というのが、

朱子学の考え方です。

「頭(皇帝)に使われる手足(を使うのは)は下の仕事」
朱子学が骨髄まで達していると司馬遼太郎氏がいう
日本近隣の諸国は、これが徹底しています。

ただ、日本はそこまでいっていません。
身分はありましたが、柔軟であると同時に
役割分担社会でもありました。

それが世界でもナンバーワンの老舗の国をつくってきた
根底でもあります。

米中心の自給自足経済であったことは、

鎖国政策も可能にしました。

しかし、

時代はすでに貨幣経済へと大きく変化していました。

武士の給金である米は、換金率が低下して、
実質給料は目減りしていきます。

前回も述べたとおり、米1石(150㎏)の価格は
江戸時代前期10万円ほどが

幕末5千円以下になっています。
 

つまり、1両と換金するのに一石必要だったものが
幕末20石以上必要だったことになります。

こうした時代の流れを見据えて、
通商国家を目指すことで幕府財政を立て直そうとした

武士がいたのです。

だいぶ評判を戻しつつある田沼意次です。
それこそ、カネに汚い、汚いカネを使ったと
 

その評価は、当時だけでなく
私が歴史を習った50年くらい前でさえも
評価の低い老中でした。

徳川吉宗が質素・倹約だと
貧しくとも、清く、正しく、
という日本人なら誰も疑わない生き方をしていたと思います。
これが、いってみれば将軍(幕府)の方針です。

8代将軍 徳川吉宗(在位1716~1745)

 

  経済成長は幕府を滅ぼす?

 

ところが、徳川吉宗と同じ時期、
名古屋藩主徳川宗春は、
いわば緊縮財政を取っていたのに対して成長戦略を取り、
名古屋は活気に満ちていました。

この時代、経済学部はなくとも

徳川宗春は知っていたということでしょう


まさに我が世の春-だったようです。
徳川宗春だけではなく、

尾張藩がそうだったということで
 

徳川の異端者、かぶき者ともいわれますが、

実は名君だったというのが、

歴史の評価ではないでしょうか。

ちなみに、やっぱりDNAは受け継がれ、
現在愛知県にはトヨタもあるし、
日本が30年間低迷している中、
活気があったほうだと思います。

話を戻すと、
こともあろうに、

幕府側のしかも御三家であるにもかかわらず、
 

公然と逆のことをしていたことになります。
私自身は、宗春は、
ヨシムネ、違うだろっ!

てことだったと思っています。

その宗春に吉宗は蟄居謹慎を命じました。
田沼も次の老中松平定信により失脚しました。

松平定信は、白河藩主時代の天明の大飢饉の折、
質素倹約、租税免除などで難局を切り抜け、
老中首座となりました。

国政レベルでも同様の「寛政の改革」を実行したのです。
朱子学重視は、それ以外の学問を認めない
 

「寛政異学の禁」のように
原則が現実に優先する方針に表れています。

享保の改革-徳川吉宗
寛政の改革-松平定信
天保の改革-水野忠邦

いずれも「改革」は朱子学という
江戸幕府の思想を支柱とした「改革」でした。

しかし、「改革」にはならなかったわけです。
ですから、江戸幕府は矛盾を抱えたまま崩壊していきます。

その一つが、農業主体の自給自足経済ですが、
世の中が貨幣経済に移行してしているわけですら、
その時流に乗らないと幕政が持たないのはわかってるはずです。

しかし、それは江戸幕府の根本である朱子学思想を
変えないといけないことになります。

 

同じような原則優先の矛盾を持った

現代国家が近隣にあります。

そして

皮肉にも、この朱子学において、
国をまとめる王には、人徳による統治する王者と
力で支配する覇者がおり、

天皇が王者で幕府は覇者だとする研究が進んでいきます。
これが朱子学から大きくなっていく尊王攘夷思想です。

1787年、天明の大飢饉の際、
困窮した京都の民衆が救済を求めて御所を巡りました。

その数数万人ともいわれます。
光格天皇は、幕府に救済を求め、
幕府もこれを受け止めました。

これは、政治的発言を禁じた
「禁中並公家諸法度」に反する大きな事件でした。



今日も最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

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