フランス革命による国民国家の誕生

 

日本で華やかな元禄文化が終わりを告げ、

新井白石が財政再建に奔走し始めた頃、
同じように赤字財政に苦しんでいる国がありました。
フランスです。

日本と異なるのは、恐らく激しい貧富の差です。
貧富の差といえば、日本においてもあったはずです。

しかし、日本では生活や年貢への不満で一揆や打ち壊しはあっても
幕府打倒ということは一度もありませんでした。

幕府への反乱は、幕臣の大塩平八郎が最初
といっていいと思います。

 

この時代、ヨーロッパでは

スペイン、ポルトガル、オランダ、

イギリス、フランスなどは国家としてそんざいしていましたが、

 

イタリア、ドイツの誕生は日本の明治維新と同じ頃、

ロシアに至っては、ヨーロッパの中では

 

皇帝とわずかな貴族ほとんどが農奴という

状態でした。

近代国家といえば、

イギリス、フランスが一歩も二歩も先んじていた

ということになります。

 

特に
フランスでは、一気に政権打倒へと激しい革命となりました。
 

日本ではちょうど松平定信が、同じように

財政再建のための

寛政の改革を行っていました。

 

フランスも財政難だった

激しかったフランス革命

 

  フランスも財政難だった


ルイ14世(在位1643~1715)は、「朕は国家なり」
つまり、「自分が国家そのものだ」といっています。
 

フランス絶対主義が最盛期の時です。

日本の元禄時代とほぼ重なります。

もともと中世のヨーロッパは、
ゲルマン民族の部族長がその家臣と主従関係を結び、
中小の多数の領主が土地を支配しており、
 

その領土を広げるために様々な地域の領主と
婚姻関係を結んでいきました。

例えば、フランスのブルボン王家も
ヨーロッパ中の王家と婚姻関係を結ぶようになっていました。

中世から近世、近代になって

国王の絶対主義の時代となっても、
領地は、まだらのように散らばっており、
 

支配権が入り組んでいて、
とても国境線など引ける状態ではなかったといいます。

ルイ16世の王妃であるマリーアントワネットの場合も、
オーストリア・ハプスブルク家出身で、
実家は嫁に財産として土地を持たせ、
それがブルボン王家の領地となるわけです。
  
ルイ14世は、戦争をしては国境を広げていました。
ルイ15世(在位1715~1774)の頃になると財政は逼迫し、
 

ルイ16世(在位1774~1792)の時は、
アメリカの独立を支援したことがさらなる財政困難を招きました。

王妃のマリーアントワネットは、
それとは関係なく宮廷生活に贅沢を惜しまなかったのは有名です。

その贅沢なベルサイユ宮殿の総面積は、
よく比較される東京ドームの2000倍の

800ヘクタールだそうです。

ベルサイユ宮殿 庭園

 

実感が湧きませんが、宮殿内の道路だけでも
20㎞はあったそうです。
庭園は、遙か地平線まで続いたとあります。

有能な財務総監ネッケルが、
財政改革を主張しても反発されるだけで、
ついには罷免されます。

テュルゴー、ネッケルらは富裕層に課税しようとしましたが
激しい抵抗にあい、失敗しています。

かつてカエサルが同じように富裕層に課税し、
失敗し暗殺された歴史は何度も繰り返されます。

1789年、前年の凶作による食料不足と物価高騰が
パリ市民の現実でした。

ベルサイユ宮殿に用いられた予算は年予算の5%ほど
だそうですから

実際には、戦争による戦費が財政を圧迫し、
年間予算の9倍の借金を抱えていました。
 

 

  激しかったフランス革命

 

ついにフランス革命がおきます。
 

この段階で、国債や紙幣乱発により
激しいインフレーションに見舞われていました。
もちろん、赤字財政補填のためです。

当時のフランスの人口は約2300万人で
ヨーロッパで最も多く、
革命の主体となった第三身分である平民は約2000万人でした。

革命は非常に激しいものとなりました。
1793年には、王、王妃共に処刑されます。

 

イギリスは、すでに市民革命を経ても国王を迎え

「立憲君主制」を整えつつありました。

 

アメリカはイギリス人がアメリカ移住した段階で

国王は存在しませんでしたが

フランスは、国王を葬り去ったわけです。

 

その分激しくなったことは考えられます。

革命派とパリ市民は、
王の財産を管理しようとしました。

王領だった地方の人たちはそれに反発したといいます。
この時代、王領は王の財産という考え方が当然で
 

それを市民が管理するというのは、
王領を横領するものというのが

当時の考え方だったのでしょう。

革命派の内部対立もあり、
さらに激しい殺戮が始まりました。

フランスと婚姻関係にあったヨーロッパ中の王家は
「パリ市民は国王の殺人者であり、
財産は親戚である自分たちが相続する権利がある」
と主張して軍を派遣しようとしました。

そこに担ぎ出されたのが、ナポレオンです。
ナポレオンは、国民軍としてのフランス軍を組織します。

ナポレオン・ボナパルト

 

参加したのは多くの市民で、
ナポレオンは、

「自分たちの国を自分たちで守ること、自分たちの財産、妻や子供を自分たちで守る」

ことを宣言します。

国王の軍隊とは、
国王が自分の財産で雇う傭兵であり、
王は財産としての兵を失いたくなかったし、
 

傭兵たちも命を失いたくなかった
というのがこの時代の戦争の基本でした。

ですから、ナポレオンの軍は、
全く意識が違いました。

ナポレオンは、戦いにとどまらず、
法制度を整えてナポレオン法典を完成させました。

ナポレオン自身、戦いの強さより
この法典を誇りにしていたといわれます。

国民が主権をもつ民主主義、
つまり、この過程が国民国家の誕生だと
多くの歴史書が書いています。

今日も最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

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