徳川綱吉の本当の治世とは その2 

 

今日は前置きが長くなります。

お許しください。

 

「情けは人のためならず」
という諺、格言があります。

本来の意味は、情け(思いやり)を施すと
それは必ず自分に(いい意味で)返ってくる。

ということです。しかし、逆も真なりです。
私たちは、社会の中で生きている以上、
言動には何らかの責任が伴います。

法的な責任だけではなく、いわゆる道義的責任です。

小学生や中学生、高校生でも

責任があるということはわかるはずです。


ゴミ一つ捨ててもそれは、

結局地球環境を破壊していることにつながります。
マイクロプラスチックはその典型です。

あくまでもドラマですが、
昨日の大河ドラマ「光る君へ」で
道長(柄本佑)が盗賊をとらえて、結果的にその盗賊が
役人に寄って殺されます。

道長は、殺したのは自分だと自分を責めます。
盗賊は捕らえられるべきだし、裁くのは別の役目です。
何ら責任はないはずです。
 

しかし、盗みに対する結果として人の命が奪われたことに
責任を感じているということです。

官庁でも企業でも学校でも部下の不祥事は
経営者(社長)など、

上司の責任として何らかの責任として処分があります。
 

では、法的にやってはいけないことをやっていて
それが自分の組織下の人間であるのに、
それは、自分は知らなかったというのはどういう意味だろう
と思ったわけです。

(知らないから)責任はない、
なのか、
(知らないけど)責任は感じる、
なのか、

しかも追及した野党は
疑惑はますます深まったという。

なんのことはない、与党も野党どちらも
政治家としてその前に人として法的に責任がなければ
それでいいのだといっていることに

なりはしないか、と思ったわけです。

次のように問うてみていただきたい。

あなたは、知らないといっているが

組織下の人間がしたことに責任を感じているのか。

 

政治家の前提である人としての品格がわかるはず。
品格には上品か下品しかありません。

一国民として素朴な想いです。

 

そういう私は、
今もこわごわと発信していることは変わりありません。

江戸時代、軍事政権がその統制下の民に
責任をもつような法律などありません。

しかし、将軍(幕府)は、政治家として責任は問われていました。
そうでなければ、すでに統治できない社会だったのです。

令和のこの世が、このままでいいかどうか
私たちがもっているのは一票のみです。
 

時代の転換点だった徳川綱吉の時代

現代につながる徳川綱吉の政策の数々

 

  時代の転換点だった徳川綱吉の時代

 

徳川綱吉

 

徳川綱吉の時代は

家康の時代から80年もたっていたものの、
戦国時代の命が軽んじられる風潮が

依然として残っていました。

 

令和になっても私のような昭和の人間がいる

ようなものです。


殉死、仇討ち、切腹さらには、切り捨て御免など、
命は常に風前の灯火でした。

水戸黄門様の水戸光圀でさえ、
若い頃は辻斬りを付き合いでゲームのように

やっていたといいます。

さらにこの時代最も有名なのが、「忠臣蔵」です。
綱吉は、激怒して
浅野内匠頭にはその日のうちに、
 

翌年主君のために仇討ちをした浅野家臣にも
切腹を命じたのだといいます。

 

このお裁きは、これまで「ケンカ両成敗」

であったことからすれば、異例中の異例です。

 

「忠臣蔵」が今でも脈々と受け継がれてきたのも

それに対する当時の人たちの思いが

明白です。

 

これについては、NHKBS

『赤穂浪士・最後の49日-英雄たちの選択』

(2024/02/07)が大変おもしろかった。

 

しかし、それは徳川綱吉の次の考え方を

知ると見えてくるものがあります。

 

「生類憐れみの令」は、
初めのうちは、病人を山に捨てたり、
貧しさで犬や牛を捨てたりしないように、
届け出をするような緩いものだったのですが、

皆法の網の目をくぐるような状態で
浸透しなかったといいます。

(「逆説の日本史14(小学館)」)

 


 

  現代につながる徳川綱吉の政策の数々

 

綱吉は、硬直していた老中合議から
将軍トップダウンを行うために将軍と老中の間に側用人を配置し、
必ず将軍の意向を確認するシステムを導入して
いわば独裁を行いました。

 

独裁は、日本では大変評判はよくありません。

そして、一気にそれまでの戦国の気風を断ち切り、
力でものごとを解決する風潮を
法による支配に変えたのです。

「生類憐れみの令」も何度も出されて
しだいにやり過ぎではないか

というところまでいったことは確かです。
 
そして、その最大のものが、服忌令(ぶっきりょう)」です。
現在の我々の服忌に関する考え方はここに始まります。

武断政治は文治政治となり、
殺伐とした風潮は、一気に変わり、
元禄文化における豊かな芸術家の輩出の背景も

ここにあるといえます。

ヨーロッパ中で戦いを繰り広げていた頃、
日本では「泰平の世」がまた一歩前進したことになります。
  
実はこの時代、綱吉に謁見している
ドイツ人学者エンゲルベルト・ケンペルがおり、
「日本誌」という記録を残しています。

その記録を分析した現代ドイツ人学者
アトリス・M・ボダルト=ベイリー女史の要約が
井沢元彦氏の著作(『逆説の日本史14』)にあります。

その中には、捨て子の禁止、
それを予防するための妊婦と7歳以下の子どもの登録、
 

子どもを育てられなくなった親の代わりに

役人が育てる義務、乞食や流人のための

食事と宿泊所を世話する義務など
多くの人命や弱者救済の法律が出ています。

さらに、牢屋内部の換気の改善、
街道の賊の厳しい取り締まり、
旅途中の旅人の病気の看護や死亡した場合の手はずなど、

現代の社会福祉立法のさきがけともいえる、
としています。

したがって、犬を保護する法律も

その延長で考えるべきである、
ともいっています。

現代の日本で、犬を食べる文化…と聞いただけで
おぞましく感じる日本人は多いのではないでしょうか。
それが、公然と行われていたのが、綱吉の頃なのです。
 
生類憐れみの令は、
一般民衆にとっては迷惑千万な法律であったと思いますが、
井沢元彦氏が「劇薬」といわれているように、
 

命に関しては、それまで、

虫を殺すように人をも殺していた風潮が、
 

江戸時代には、現代との文化の違いの垣根は低くなり、
我々今の日本人が感じる命あるものを慈しむ感覚となったのが
この時だということです。
 
武断政治が文治政治に変わった時代とは、
知っているかもしれませんが、

 

その実態は、こうした綱吉の政策がなせる手法であった
ということができます。

今日も最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

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