足利義政は何をしたかったのか

前置きですが、

今日は「建国記念の日」
2月11日は、
神武天皇が紀元前660年に橿原の地で
初代天皇として即位されたことに由来する祝日で
「建国記念日」でした。

『 日本書紀』には、
「辛酉春正月、庚辰朔、天皇橿原宮に即帝位。

 是の歳を天皇の元年と為す。」
 と記されているそうです。
  
「建国記念の日」は、1966年(昭和41)年の
祝日法改正により設けられました。

国民の祝日であり、
「建国をしのび、国を愛する心を養う」日

とされています。

「の」がはいるのと入らないのは何が違うのか、
一見どうでもようようですが、
次のような経緯があるようです。
  
戦後占領したGHQが、
紀元節に基づく2月11日「建国記念日」を廃止しました。

GHQはもとより、
日本が二度とアメリカの脅威とならない

ようにするのが占領の目的と、
最近は教科書にも記載するようになりました。
 

アメリカは

「紀元節」をもとに日本人が
天皇中心に団結するすることを怖れたということです。
 
その後「紀元節」復活が国民の間で高まりましたが、
学者が2月11日に建国された科学的根拠がないことや
野党の反対で、何回も議案提出と廃案を経てやっとできたのが、
「建国記念の日」ということです。
  
建国の科学的根拠がなければ、

建国記念日といえないのか。
 

その日が2月11日だという神話にこそ
真実がある事実こそ重要だと私は思います。

ゲーテも言っています。「全ての出来事は象徴である」

 

 

いまだにアメリカ人の少なからず
「神が人間を造った」のであって
「サルが祖先」だとは思っていないのです。

https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2021/08/post-97013.php

 

アメリカ人だけではなく、

世界の国民が、宗教を断ち切った生活をしている

人は、多いとはいえません。

 

というより、宗教や信仰心は、人間だからあるものです。

 

今日の本題です。

足利義政が第8代征夷大将になった頃…

足利義政は日本文化を広めた功労者?

 

  足利義政が第8代征夷大将軍になった頃


足利義政が第8代征夷大将軍となったころ

室町時代は、すでに実力主義の時代を予見していました。
つまり、社会は安定しておらず、
その分、村社会も団結せざるを得ませんでした。

鎌倉時代以来二毛作をはじめ
農業技術も進歩し、一般民衆も以前よりは
豊かになってきた時代です。

無能だったり横暴だったりした守護などに
生活防衛のための実力行使をしたわけです。

民衆が心を一つにして反旗を翻したということで
土一揆といいました。

民衆といってもはっきり言えばこの時代
武士と百姓の身分の違いなどはっきりしません。

一揆は連鎖し、
その後、山城国一揆、嘉吉の徳政一揆へと連なっていきます。
 
正長の土一揆の翌年に起こった播磨の国一揆は、
中心が国人でした。

国人はその地域に住んで生活する小豪族です。
当時守護は、幕府から任命される守護が
派遣された分国を完全に掌握していることはありませんでした。

そのため、守護は京都に常駐して幕府の権威にすがり、
その地位が守られることだけを願ったのです。

国人は武士ですが、一揆方に加勢して、
京都から出陣した守護の赤松満祐と全面対決に臨み、
鎮圧されます。

また、山城国一揆では、
守護の畠山持国が、高利貸しから賄賂ももらっている
管領細川持之ら宿老たちが
一揆の鎮圧に乗り出すのに反対します。

理由は、一揆側に恩を売り、
守護の地位がなくなっても大名として支配できるよう
国人たちを手名づけるためです。

結局一揆側の徳政を全て認めさせます。

ただ、比叡山延暦寺だけは、
仏に一度寄進したものを帰せと、
強訴してここだけは例外となったということです。

この当時の寺社勢力の実態がよくわかります。  
このような状況の中で、
義政は第8代将軍となりました。

 

  足利義政は日本文化を広めた功労者?

 

銀閣は、義政が東山山荘として建てた、

二階建別荘です。

 

銀閣は正式には観音殿といい、
後に義政の法号から周囲も含めて

慈照寺と名づけられました。

ちなみに金閣は、舎利殿が正式名。
義満の公邸仕事場で三階建で、
鹿苑寺という名も義満の法号から名づけられています。     
  鹿苑寺金閣                         慈照寺銀閣
 

義政は、美術家と美術品を見定めるには超一流でしたが、
政治には全く意欲がなく、早く誰に譲りたかったわけです。
そこで僧となった弟の義視を還俗させて将軍にする予定でした。

義視も兄の性格を見抜き、
約束を破らないよう相当の確認をしました。

にもかかわらず、義政の正妻、日野富子に義(よし)尚(ひさ)が生まれると、
すぐにその約束を反故にしようとしたといいます。

妻にいわれたという話ですが、
結局煮え切らず、引退することもできず、
義視の後見人である細川勝元、義尚の後見人山名宗全の対立、
管領家の対立などから応仁の乱が始まります。
応仁の乱
最後は、西軍であった義尚が東軍に、
東軍であった義視が西軍となり、
両軍疲れ果てて終わります。

結果として義尚が9代将軍となります。
この間、義政は東山山荘建設に夢中になり、
毎夜宴であったといいます。

京都は人が住むことができないほど荒れ、
公家たちは地方へ逃亡しました。

こうして現在の日本建築の

襖、違い棚、掛け軸、生け花などは
全国へ広まったのです。

当然、幕府の権威、権力は失われ、
もともと支配のため幕府から派遣された守護は
その地域には不在で、

地元出身の守護代がその支配地を治めていました。
その中で実質支配者となっていったのが
織田、朝倉などの代表的な戦国大名です。

守護の支配ができないところは、
山城の国一揆や加賀の一向一揆のように、
地侍であった国人や武力支配のなかった寺社と村が
結びついて守護や守護代を追い払い
自治をするところも出てきました。
  
室町幕府は、もともと財政基盤が弱かった分、
守護大名化でその権力自体も弱まり、
 

かつ京都という地理的な場所もあり
公家化したことで権威も信頼も失っていきました。

今でこそ、あまり見られなくなりましたが、
田舎の実家へいくと
ずいぶんと立派な床の間や襖などがあるのは
足利義政のおかげ??といってもよいのです。


生け花
有名な東求堂同仁斎 書院造り  床の間には生け花も置かれた

 

結果として、
守護大名連合政権の室町幕府は、
8代義政の時、応仁の乱を経て急速に衰退します。


今日も最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

 

 

 

 

 

 

 

 

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