さんざんたる足利幕府といわれる中、現在に残した功績は大きい

 

今日は、

鎌倉時代や室町文化を中心に
少し述べさせていただきます。

何度か触れていますように
私は、中学校の社会科の教師でした。

その授業1時間(50分)に
自分の教師としての全てをかけるつもりで
授業づくりをしてきました。

このブログは、その授業づくりで得た自分の
教材ノートを基につくっています。

ちなみに、自分が自分に誓ったことは
一度たりとも同じ授業はしないということです。
ですから、今日より明日、明日よりあさっての授業が
進歩している(はず)と40年近くやってきました。

今日は、歴史の授業の中でも「文化」の項目の話です。
教科書では「飛鳥文化」「国風文化」「鎌倉文化」…
と時代別に文学、美術、建築の特色や
その時代の代表的作品が羅列しています。

要するに暗記するしかないのですが、
しかし、自分をこの「文化」を
可能な限り、政治やその時代の特色と結びつけて
授業を試みてきました。

例えば、
時代の雰囲気を代表する
源氏物語絵巻と金剛力士像を並べて見て
平安時代と蒲倉時代の区別を理由とともに
発表させます。




要するに華やかな宮廷の女性文化
その結果としての武士の台頭という
マッチョな金剛力士像に鎌倉文化がよく表れています。

室町文化は鹿苑寺金閣と慈照寺銀閣を並べ
鹿苑寺金閣には足利義満が考えた
三層構造とともに
 

金箔にするために守護大名からの資金集め
による守護大名の経済的力をそぎ落とす
野望が見えます。

一方、慈照寺銀閣は
簡素な造りでそれが、

足利義政の美観であったともいえますが、
 

一方財政難であった
足利義政の時代が見えてきます。

 

しかも、応仁の乱だというのに
足利義政は、この慈照寺銀閣造りにふけりました。

義満が保護した能は、

観阿弥、その子世阿弥と大きく花開き、
能は、日本の演劇ができなかった霊を
仮面をつけることによって克服しています。
 
世阿弥は、義満によって最下層の河原者でありながら、
当時最高の教養人で公家である

二条良基の教育も受けさせています。

能の役者としてもそうですが、
演劇の理論家として「風姿花伝」を完成させた功績は
大きいと思います。
「花」と「幽玄」ということです。
  
生け花や水墨画は、書院造りととに生きており、
現在でも日本間には欠かせない美しさと静けさ、優雅さを添えます。

 

足利義政は、

こうした美意識の高さは、大変優れていたと

いわれます。

 

本業の征夷将軍職の方は、さっぱりです。

美にふける足利義政ですが、

ふけるには、集中するという意味と

逃げる、サボるという意味があります。



 

生け花は、井沢元彦氏によると
もともと熱帯のインドで死体の腐臭を防ぐため
「香華(こうげ)をたむける」ということでした。

インドの気候と異なる日本では、
香りより見栄えを重視し、
それが生け花となっていったようです。
 
そして、
現在の日本文化の元祖はほとんど室町時代にあります。
まずは、折り紙。

この折り紙からできたのが風呂敷。

同じ四角形で江戸時代に、
フロで自分の着物を風呂敷に包んだ、

フロで敷いたから風呂敷だそうです。

和室、和食、家紋、歌舞伎、俳諧、風呂、
全て室町時代に起源をもつようです。

家紋は、風呂敷などに入れ、
江戸時代その家と他家を区別しました。

幕府も苗字は許しませんでしたが、家紋は認めています。
「歌の前に平等」という万葉集ならではの

日本ということでしょう。

茶はもともと、
飲みにくいまずい水を飲みやすくするために

考えられたもので、

江戸時代まで川の水をそのまま飲むことのできた
世界ではまれな

水の豊かな美しい日本では不要だったのですが、

聖武天皇がはじめ、
平安時代には嵯峨天皇が好んだそうです。

その後、一事途絶えます。不要だからです。

その後、鎌倉時事代に栄西が

「薬」として実朝に勧め、広まったようです。

日本で茶が広まったのは、
カフェインが含まれていたので禅の修行に眠くならない
ということで広まったらしい。

これは、イスラム圏で、コーヒーが広まったのと全く同じです
 

今日も最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

 

 

 

 

 

 

 

 

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