帝国解体後も世界に影響を与え続けたモンゴル


「勘合貿易」は、歴史の授業で
記憶にある方も多いだろうと思います。

日本と明が貿易する際に、明が「倭寇」の取り締まりを求め
義満は、「倭寇」と幕府の派遣船を区別するために
「勘合符」という割り札を使用したのです。

しかし、明は「海禁(鎖国)」政策で民間の貿易を禁止し
明政府が「倭寇」とレッテルを貼っただけの話です。
しかもその「倭寇」の実態は日本人ではなく多くが
福建等で生活する明国人です。


勘合符
勘合符(割符)

 

一時期日本とチャイナは「政冷経熱」の関係
といわれたことがありました。

実は、「元寇」があった頃の前後、その最中も
日元貿易は盛んで、元寇後は貿易を通して
そうとうの経済のみならず文化交流もありました。

後醍醐天皇の一元支配は、どうもモンゴルの影響で
さらに紙幣の発行も考えていたようです。

足利義満だけが有名ですが、
足利尊氏・直義(ただよし)も
日元貿易には相当熱心でした。

熱心でなかったのは朱元璋をはじめとする
明で、何度もいうようで
それが「倭寇」排除の「勘合貿易」となったわけです。

この明の内向的政治の副産物は、
モンゴルを通して伝わった
火薬、羅針盤、印刷術をヨーロッパが駆使して
逆襲する時代がやってきます。


 

チンギス・ハンは破壊し、ティムールは創造した

計り知れないモンゴルの影響

 

  チンギス・ハンは破壊し、ティムールは創造した


チンギス・ハンの名前は聞いたことがあっても、
ティムールになると高校で世界史では扱うでしょうが、
余り有名ではありません。

少し前に述べましたが、
モンゴルの正統な後継者ともいわれています。

中央アジアに巨大なティムール帝国を建てました。
首都サマルカンドには、現在もその跡が残っているそうです。

 

中央アジア最大といわれるビビハニム・モスク
やバザール(市場)、

バーグと呼ばれる巨大な庭園も造りました。(参考↓)

 

「チンギス・ハンは破壊し、ティムールは建設した」
という言葉が残っているほどです。

一方、戦いも強く、
キプチャク・ハン国やイル・ハン国などを併合し、
オスマントルコ(1402アンカラの戦い)も破っています。

明の遠征途中、1405年に病死します。
明を討った後、日本を目指していたとする説もあります。

しかしその後、後継者争いで内部分裂し、
ウズベグ族(現ウズベキスタン)に滅ぼされ、

その末裔バーブルは
北インドにムガール帝国(1526~1858)を建国します。
つまり、この国もモンゴルの末裔です

ちなみにこのモンゴルの最大の被害者が
ロシアだといわれます。

モンゴル帝国時代、
チンギス・ハンの孫のバトゥにより1240年にキエフ公国が滅亡し、
1480年にモスクワ大公国イヴァン3世が独立を回復するまで、
ロシアはキプチャク・ハン国の支配を受けていました。

これを「モンゴルの軛(くびき)」といいました。
軛とは、牛や馬の首につける首輪で、
要するにモンゴルに押さえつけられて
トラウマとなったということです。
これについては、後に詳しく述べます。
 
 

  計り知れないモンゴルの影響

 

11世紀に建国されたトルコ系イスラム国家である
セルジュク朝は、十字軍と戦い
その後モンゴル軍の攻撃で13世紀に消滅します。

その過程でオスマン朝が誕生します。
ティムールに敗れたため一時衰退しますが、
ティムールが明に向かったため、
立て直しを図り国力を増大させることができました。

最盛期には西アジア・東ヨーロッパ・北アフリカを支配する
大帝国となります。

1453年にコンスタンチノープルを攻撃して
ビザンツ帝国を滅亡させました。

コンスタンチノープルは、
イスタンブールとイスラム風に改称して首都となりました。

この頃からオスマン帝国と呼ばれ、
多民族国家となっていきます。

強力な軍隊と中央集権体制で支配しましたが、
宗教に関しては実に寛容であったことも特徴です。

巨大なオスマン帝国がアジアとヨーロッパにまたがり
交易ルートを遮断したため、
北イタリア商人たちは、直接アジアとの取引を目指し、
インド航路や西回り航路の開拓を始めます。

大航海時代の始まりです。

ビザンツ帝国の滅亡は、
在住のギリシャ人学者のイタリア諸都市亡命につながり、
ルネサンスを刺激しました。

しかし、「パクス・モンゴリカ(モンゴルの平和)」といわれる
モンゴル帝国の実現によって、
ユーラシア内陸の東西交流の活発化が
大きな影響を与えたといわれています。

イランには、ティムール帝国の混乱ののち、
サファービー朝(1501~1736)がおこり、
現在のイランにつながることになります。
 

塩野七生氏は、
ヨーロッパや中近東を旅すると
未だにモンゴルの爪痕の深さがあちこちに認められ、
そのすさまじさに驚くと
「男の肖像(前掲)」で述べられています。         

モンゴルは、

その後裔のティムール帝国や

ムガール帝国、

「モンゴルの軛」となってユーラシア全体に、

そしてその後の世界に影響を与え続けたのです。    


     

今日も最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

 

 

 

 

 

 

 
 

 

 

 

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