鎌倉幕府の失敗コピーが室町幕府

 

いまや、インバウンド(外国人観光客)は

日本の虜となっています。

 

ユネスコ無形文化遺産ともなった「和食」

和室や布団など日本式旅館も人気です。

 

フトンは「futon」と英語になっています。

 

その他、家紋、歌舞伎、俳諧、風呂、

全て室町時代に起源をもちます。

 

折り紙をもって外国へ行くだけで友人ができるそうです。

折り紙からできたのが、風呂敷

風呂敷はなぜ、「風呂」しきなのか…


現在の日本文化の元祖は

ほとんど室町時代にあるそうです。

 

 

守護が守護大名となったのが室町時代

 

実は織田信長以上に魔王だった足利義教

 

  守護が守護大名となったのが室町時代


義満の南北朝合一の時代から少し遡ります。
足利尊氏は、もともと源氏です。

足利尊氏は、期待を背負って室町幕府をつくりました。
本当は、鎌倉に幕府をつくるべきでしたが、
京都にとどまざるを得ない理由がありました。

それは、南朝(吉野)の存在です。
京都に張り付いている必要があったわけです。

室町幕府は、鎌倉幕府のコピーを目指したはずですが、
京都に幕府を構えたという違いの上
もう一つ大きな違いがあります。

要するにカネがなかったことです。

建武の新政で武士の既得権益が白紙になっていくことは、
それまで鎌倉幕府に仕えながら土地を安堵(保障)してもらっていた
武士にとっては、財産没収にほかなりません。

もう一度鎌倉幕府を再興してもらいたいと願う武士たちは、
足利尊氏に期待しないはずがありません。

かといって、源頼朝の時代のように
平氏を滅ぼしてその支配地を分配するにも
その土地がありません。

室町幕府は、

守護といういわば警察・軍事の権限のある役所に
国衙領(国の土地)や荘園(私有地)から

兵糧米を徴収していいよ
というお触(半済法)を出します。

そのうち、戦のためだったのが恒常化します。
税を徴収する地頭と荘園領主との土地や税を巡るもめ事も

多くなります。


守護に依頼することも多くなり
守護の権限が強くなっていきます。
 

この辺は、中学生にとってもわかりにくく
教科書を読んでいても
たぶん、よくわからないと思います。

わかりやすくいえば、
鎌倉幕府は、中央集権的で守護も地頭も
すべて幕府の御家人、直接の家来でした。

ところが、室町幕府に財政的余裕はなく
守護にも自分の国のことはまかせたよ
となります。

その結果、守護は徴税だけでなく土地を支配し、
部下までつくっていきます。

図 鎌倉幕府と室町幕府の機構のちがい

 

つまり、守護の支配下は守護との関係だけで
守護は幕府の支配下というより
 

事実上一国の大名になるわけで
これを守護大名というわけです。

室町幕府は、有力守護大名の連合政権であった
ということになります。

この後、応仁の乱後に戦国時代になることが
典型的なように、
幕府に統制する力はありませんでした。

 

くりかえしになりますが、
室町時代になり守護の権限が強化されるにつれて、
守護本来の将軍直属の軍事・警察権が
領国支配権に及ぶようになります。

守護が地元出身の地頭や名主といった国人を配下として
自分は領主となっていき、

つまり、鎌倉時代の守護は皆将軍直属の御家人でしたが、
室町時代は、守護が大名化して自らの家臣を持ったことで
将軍との関係は薄くなっていきます。
これが守護大名です。
 
また、本来であれば鎌倉に幕府を置くところですが、
南朝の存在からしても京都から動くことができず、

鎌倉府は
本当は関東を監視する第二の幕府の役割でしたが、
むしろ対立する

もう一つの幕府的存在となっていました。
 

  実は織田信長以上に魔王だった足利義教

 

4代足利義持は、
5代足利義量(よしかず)死後も実権を握っていましたが、
 

指名した段階で誰もいうことを聞かないだろうからと、
後継者を決めることができませんでした。

仮に決めたとしても当時4人いた後継者と
その支持者は正当性を主張して争いになるというくらい
将軍の権威はなかったのです。

そこで、前代未聞のくじ引きとなりました。
決まったのが6代足利義教(よしのり)です。

くじ引きというと

はっきりいって信じられないという感じですが、

足利義教はこれを逆に利用します。


お神籤もくじであるようにくじは、神のお告げだと。

神のお告げで将軍となった足利義教であるぞ。

というプロタガンダ作戦です。


僧であった足利義教は還俗して将軍となりました。
 
将軍不在の1428年、正長の土一揆が起こっています。
記録にあるように「天下開闢以来」の土民の反乱です。

これまで一揆というのは、
「揆」を一にするという意味で国人など

地侍の反乱であったのが、

正真正銘土民というので、
大乗寺の僧はこの世の終わりだといったというのです。

足利義教は、幕府の権力で

社会に秩序をもたらそうとしました。
 

初めに足利義満もできなかった九州統一を果たし、
延暦寺に向かいました。
 
当時の延暦寺は、神仏習合の時代にあって、
同敷地内にある「日吉(ひえ)神社」でもあり、
 

要求が通らないと「神輿(みこし)」を担いで
幕府に強訴するのが普通でした。
  
足利義教は、その延暦寺根本中堂を焼き払い、
室町時代の南北朝といわれた鎌倉公方を滅ぼし、
「恐怖の魔王」と恐れられるようになります。

 

織田信長の前に「魔王」がいたのです。
 
足利義教は、義円(ぎえん)という延暦寺の座主、
そのトップが還俗して将軍になったので、
延暦寺のことは知り尽くしていました。

そして、くじという神のお告げで将軍になったことは、
比叡山の神仏力を超える力の根拠をもった
ということになるわけです。
 
しかし、既得権益の破壊は、恨まれます。
自分と対立していた赤松満祐を引退させたことで、
その赤松家であっけなく暗殺されました。
  
6代足利義教が暗殺されたあと、
7代足利義勝は9歳、宿老会議で決定しました。
 

つまり、足利義教の神の力に対して、
宿老(評定衆)という重臣に

操られるということになってしまいます。

しかも、足利義勝は10歳で病死しました。
その弟足利義政(義成)が将軍となるのは、
1444年で、それまで将軍は空位でした。

その間、戦国時代は静かに進んでいました。
 

土民が反乱を起こすとは世も末

といわれた正長の土一揆ですが、
一揆は集団を意味しました。

今日も最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

 

 

 

 

 

 

 

 

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