モンゴルにとって初の海洋国家だった日本

 

塩野七生氏がヨーロッパやアジアを旅行するとき
至る所に現在でもモンゴルの傷跡が残っている
と記しています。

それは、日本においてもそのようで
読売新聞で次のような記事を見つけました。

九州でいまだに鶏を飼わない習慣があるのは
鶏の鳴き声のために家族全員がモンゴルに殺されたからだ
というものです。

その他

 

 

実は、東北地方にまで、

秋田の「なまはげ(ホントは神様です)」以上に恐ろしい

という、モウ、モンコ、モンなどという

言い伝えが残っています。

 

これは、東北の安東氏が

元寇で派遣された後の話のようで

「安東の子守歌」として残っています。

 

モンゴルは、実際の恐ろしさを事前に

「プロパガンダ」として吹聴していた

ともされています。

 

私は、日本の歴史を顧みたときに、
周囲が海であったことの意味の大きさに
改めて感謝するしかないと思っています。

いつかまとめてみたいと思いますが、
世界の都市が城壁で自らを護ってきたのが常識ですが、
城壁があるのが都市というのであれば、
日本には都市がないことになります。

城壁とはあくまで人工的なものです。
「都市」とは「国家」のことでもあります。
この漢字の「国」、つまり「國」が城壁があったことを
示してくれています。

日本にとって城壁とは、海であった
といってもよいと思います。

ペリー来航という世界史の流れにより、
その海も城壁という意味を成さなくなりましたが、

日本にとって海は、単なる城壁ではなく
日本が独自の文明を育むためになくてはならないもの
であることは確かです。

そして、ユーラシア大陸の
西端のイギリス
東端の日本

この位置的な差と大陸からの距離も
歴史を大きく変えた原因になったと思います。

その東西を結ぶ位置にいたのが
モンゴル帝国でした。

 

 

モンゴル帝国最大版図 ヒストリスト(山川出版社より)

 

騎馬を使えなかったモンゴル軍

鎌倉武士は強かった

 

  騎馬を使えなかったモンゴル軍



「北条時宗の短い人生は、

モンゴル襲来にはじまり、

モンゴル襲来にくれた一生」

 

と記しているのが、作家の塩野七生氏です。

塩野七生著「男の肖像」(文藝春秋)



北条時宗
 

世界最強のモンゴル軍は、
結果として鎌倉軍に敗れたという事実があります。

それは、神風が吹いたからだということは、
日本人なら小学生でも知っています。

しかし、それは本当のことだろうかということが
最近いわれるようになりました。
 
この戦いを唯一絵で記録した当時の記録が
「蒙古襲来絵詞」です。



蒙古襲来絵詞より
 

御家人の竹崎末長が、
自らの活躍を記録するために描かせました。

世界中どこにも
当時のモンゴル軍の様子を記録したものはないそうです。
モンゴルは文字をもちませんでしたので、
記録もない、つまり歴史がない
というのが、歴史家の宮脇淳子氏です。

帝国化してしてから、文字は使いましたが、
それは、自らの民族の文字ではありません。

ですから、
映画で描くこの当時のモンゴル軍の服装や戦いの様子は、
全て「蒙古襲来絵詞」を参考にしたものということですから
驚きです。


この「蒙古襲来絵詞」を用いて、私も授業を行いました。
意外に軽装のモンゴル軍が数人で、
馬にまたがる武士を攻撃している絵詞は、
生徒を引きつけます。

明らかに集団戦法に鎌倉軍は、
一騎打ちで挑んでいます。

さらに、炸裂する鉄炮(てつはう)が見えます。
いわゆる手榴弾です。

日本の常識が通用しない。
しかし、鎌倉軍は耐えて反撃に出て、
モンゴル軍は押されて船に戻ります。

翌日、そのモンゴル軍は全て消えていたというのです。
1274年10月、文永の役です。ほぼ全滅であったされます。

それは、大暴風雨という神風が吹いたからだ
ということになっていますが、

鎌倉軍の奮戦に、モンゴル軍は退いたのです。
しかも、モンゴル軍とはいえ、
ほとんどが高麗軍でした。

モンゴル軍は海軍をもっていなかったのです。
モンゴル軍が高麗を征服したことで、

高麗は船を造ることになり、
相当急務の仕事であったというから、
船団も雑であったかもしれません。

かつ、モンゴル最強の騎兵がなく、
モンゴル軍は歩兵でした。

理由は海があるからです。
 

 

  鎌倉武士は強かった

 

作家の井沢元彦氏によると、

モンゴル軍の機動性として、
一度の戦いに、
一人が乗り換えるための馬4頭を準備したといいます。

つまり、1万人で4万頭の馬の搬送を必要とし、
当時そういう巨大な船の建造は不可能であり、
かつデリケートな馬は、
海を渡ることは困難だいうことです。
 
フビライ(クビライ)は、本気になったといいます。
まず、二度にわたって警告を発する使いを日本に送っています。
上から目線のこの使者を、時宗は処刑しました。


フビライ

フビライ・ハーン 
 

今度は、南宋も滅ぼし、
その南宋にも船団を組ませ、
二つの航路でやってきました。

1281年5月、弘安の役です。
鎌倉幕府は、九州に土塁を構え、
御家人以外も含めたオールジャパンで迎え討ちました。

この国難に立ち向かった鎌倉武士は、
「いざ鎌倉」
という意識ができていた、
そう考えないとこの勝利はありえない
と考えます。

武力としてもこの時代の武士の強さは本物で
しかも
土地を媒介とした主従関係の信頼が
オールジャパンを支えていた
と考えます。

そして、今度もまた「神風」が吹いたのです。
 
日本は、神がつくった国だけでなく、
本当に神が守ってくださる、そう信じたのが朝廷でした。

つまり、
時宗以下、
鎌倉幕府に対する賞賛も褒美も何一つなかった
ということでもあります。

単純な話、モンゴル軍が陸上に押し寄せ
攻めていた段階で
神風が吹いたらどうなっていたか。

歴史の過ぎ去った事実へのifは、無意味と
誰が言い出したかわかりませんが、

仮説を立てて検証する意味はある
という

歴史家や学者、歴史作家なども多いことが、
わかってきました。

この未曾有な困難な敵に対して
時宗は、敵の元兵を鎌倉円覚寺に千体地蔵を建立して
供養をしています。

そして、34歳の若さでこの世を去ります。
 

 

モンゴルに攻められて勝った民族は、日本人だけである。

と塩野七生氏は、同書で記しています。
   
今日も最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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