平氏政権は短命だったのはなぜ

 

行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとどまることなし

 

有名な鴨長明「方丈記」の冒頭です。

古典が苦手で風流を解せない私ですが、これは染みてきます。


鴨長明は、1155年生まれですので、

まさにこの平氏の時代とともに

生きた人です。

 

幼くして神官の将来を嘱望されていましたが、

父の死で道がたたれます。

 

その後、歌の才能が開花し、

後鳥羽上皇の勅撰和歌集選者にまでになり、

鴨長明を禰宜(神官)として推薦していますが、

再び身内の大反対でこの時も道をたたれています。
 

その後、鴨長明は出家し「方丈記」を残しますが、

短い内容に

極めて詳細な時代の実相と世の真理が描かれています。

 

古典の苦手な私がいうのですから。

現代文でもおもしろく読めます。

 

鴨長明が生まれた翌年、

翌年1156年は保元の乱がおこり、

京都騒乱の幕開けの時代となります。

 

そして、平氏が滅び、

鎌倉に幕府が誕生する大きな時代の変化とともに、

天変地異の連続であることがわかります。

 

地震、凶作・飢餓、そして戦乱、

現在と全く異なる時代でありながら

その実態はよく似ていたのかも知れません。

 

冒頭のことばが、私に響くのも

そういう理由があるのかも知れません。

時代は、天変地異や疫病と関連して大きく変わるという
傾向があります。

 

時代は武士がいなければ成り立たなかった

平氏が滅んだ理由とは

 

  時代は武士がいなければ成り立たなかった


1156年、兄の崇徳上皇と弟の後白河天皇

さらにそのうしろに貴族同士の争いがあります。

しかし、実際に戦ったのは、武士たちでした。

保元の乱では、結果として後白河天皇側が勝ちます。
崇徳上皇は流刑となり、魔王となって天皇家を潰すと呪う
日本三大魔王(怨霊)の一人となります。

ちなみに
三代怨霊の他の二人とは、菅原道真、平将門です。

この戦いでは、

敗者側となった源義朝は父の為義を、
平清盛は叔父忠正の死刑を命じられます。

極めて残酷な刑であるとともに、
嵯峨天皇時代の810年より絶えていた「死刑」が
約350年ぶりに復活したことは、
極めて重大な出来事となりました。
 
日本人の根底に怨霊信仰があるというのが

作家の井沢元彦氏です。
その根本は、穢れである、というのが著者の主張です。

未だに我々の日常に確かに存在すると

実感せざるを得ません。

平安時代の貴族が、死穢を恐れ、
辺境である東北地方の蝦夷を成敗するための

健児の制を除いて

実質、軍や警察つまり兵部省や刑部省を廃止してしまい、
治安の維持のためには令外官としての検非違使、
果ては武士に頼わざるを得なくなりました。

江戸時代の穢多や非人の差別もその一つで、
牛や馬の死体処理、動物の皮をはいで刀の柄に巻きつけたり、
鞘にしたりする職人である穢多、罪人埋葬、遊芸などの非人は、
典型であると思われます。


源頼朝 

 

 

  平氏が滅んだ理由とは

 

武士のおこりについては、すでに紹介したとおりです。
つまり、困ったことがあっても
警察や法が機能しなければ自分で守るしかない。
 

この中で、皇族出身で中央に官職がない場合、
 

姓をもらい「臣籍降下」して地方に土着し、
力をつけてきたのが源氏と平氏でした。

源氏は、藤原摂関政治の頃中央の政争に破れ、
特に関東に根付き、
武士の身分になってからはさぶらうものとして

藤原氏に使えました。

一方桓武平氏は、関西中心に土着し、
院政になってから院の私設軍とも近衛部隊ともいえる
北面の武士として力をもってきました。

特に清盛の父である忠盛は、
白河法皇に気に入られ、

法王の子を宿した祇園女御を妻とし、
生まれたのが清盛だと平家物語に書いています。

つまり、清盛は白河法皇の子の可能性が高い

ということです。
平氏は、

公地公民が有名無実化する荘園のはびこる中で国司となり、

その国の土地である知行国を

いわば私物化して経済力を蓄え、
かつ藤原氏と同じように娘を天皇の后として

権力を握るに至ります。
  
1159年、平治の乱で源義朝を破り名実ともに
武士の棟梁となった平清盛は、
 

翌年、後白河上皇によって天皇親政派に対抗するため、
武士として初めて公卿の列に加えられることになります。

その後、清盛は昇進を重ねて
1167年に一気に太政大臣となります。
一族も皆昇進し、栄華を誇ります。
 
「平氏でなければ人でなし」と詠まれたのもこの頃です。
 
平氏政権は、一代で滅びました。
頼朝を助けたことが仇となったといわれていますが、
 

根本的には、政治手法が藤原氏と同じで
頼朝のような理念がなかったということでしょう。
 

しかし、貴族から非情な扱いを受けていた武士がいなければ
平安末期の世は成り立ちませんでした。

藤原氏の繁栄のみの平安時代後半は、
同じように平氏が

その一族のみの繁栄だけしか考えなかったことで、
時代はすでに限界だったということです。

院政の時代、朝廷は、
武士の力を利用して藤原氏から政権を奪い返しました。

武士である平氏は、その勢力を使い実権を握りました。

しかし、
藤原氏と同様の政治を行い、

全国の反感を買い、一代で滅びました。
                                           
その時流を読んだのが源頼朝と北条氏
であったのかもしれません。

 

平氏が滅んだ1185年、

関東大地震クラスの大地震が都を襲い、

その余震が3ヶ月余り続いたとされます。

 

平氏の怨霊だともいわれました。

その鎮魂が『平家物語」だとも。

 

鴨長明が生きた61年間の間に

8人の天皇が変わり、

 

災害による改元が

地震が2回、

水災が1回、

火災が2回、

戦関係が3回、

疫病関係が7回、

飢饉が1回とされます。

今日も最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

 

 

 

 

 

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