院政と平氏政権は短命だった

日本の歴史が世界の歴史と根本的に異なるのは
万世一系の天皇の系譜です。

どんな状態であろうと
天皇の地位を脅かすということはありません。
平安時代は、藤原氏という貴族の寡占状態、独占状態でしたが、
それでも、天皇に取って代わろうということがありませんでした。

あえていうなら、日本史上二度ほど、いや三度かもしれません。
天皇の地位が取って代わろうとしたのではないか
ということはありました。

一つが、奈良時代の道鏡
一つが、室町時代の足利義満
一つが、織田信長
いずれも事なり得ませんでした。

天皇の権威は、揺らぐことはなかったということです。
古来日本は、身分というより役割分担社会だ
という考え方もあります。

日本と似ているというお隣の大国はどうでしょう。
徳のあるものが皇帝になるという易姓革命の歴史です。

 

 

徳があるから皇帝になるのではなく
皇帝になったから徳があるということらしいです。
いわば、実力社会です。

どうでしょう。こういう実力社会がいいのでしょうか。

時代は過渡期です。
藤原氏から朝廷が権力をも奪い返そうとします。
そこでは、超法規的な存在の上皇と
武士という当時最下層の身分が時代の変革を促進します。

そして、平氏が藤原氏に取って代わる武士として
初めての政権をつかみ取ります。


しかし、平氏政権は歴史上武家政権とは
見なされていません。
なぜでしょう。

 

つまりここまでが、古代で

鎌倉時代という政権の頃からを中世という

ようです。

 


 

朝廷が藤原氏から権力を取り戻す方法とは

院政がもたらした権力闘争の行く末は

 

  朝廷が藤原氏から権力を取り戻す方法とは

 

大陸で唐がほろんだ後、五代十国という

内乱と分裂が続いていた頃、

  
200年続いた藤原氏の摂関政治も、
ついに凋落の時を迎えます。

後冷泉天皇の皇后となった藤原頼通の娘に、
男子ができなかったのです。
 
後三条天皇は即位(在位1068~1073)した時35歳で、
母は、藤原系ではない

三条天皇の娘である禎子内(ていしない)親皇でした。

藤原氏の圧力に負けない年齢と経験を備えた力量で
荘園整理令を発し、
不正な手続きで成立した荘園を没収します。

これまで何度も出された荘園整理令は
藤原氏の圧力で失敗していましたが、
この時は効果をあげ、不正な荘園は天皇の私領となります。

これがのちに院政の時、上皇の財力となっていきます。
しかし、不正ではないとされた荘園は残ります。

後三条天皇は、藤原系でない妻の子である実仁(さねひと)親皇を
次期天皇としたかったのですがまだ2歳、
やむなく藤原系の貞仁(さだひと)親王を白河天皇とします。

すると
白河天皇は、父の後三条天皇の遺志を無視して、
上皇として天皇以上の権力を振るうようになります。

まず、自分の子である堀河天皇に譲位するも、
若くして亡くなります。

そこで、5歳になったばかりの孫を鳥羽天皇とします。
さらに、養子として育てた璋子(しょうし)(18歳)を
鳥羽天皇(16歳)の皇后とし、(資料によっては年齢に多少誤差)

その子どもが生まれると、鳥羽天皇を引退させて上皇とし、
5歳の顕仁(あきひと)親皇を崇徳天皇にします。

この辺になってくると顔と姿がわからないので
訳がわからなくなってきます。

 

天皇と藤原氏との関係図




要するに自分のやりたいようにやったということです。

「加茂川の水、双六の賽、山法師(比叡山延暦寺の僧兵)
だけが自分の意のままにならない」
 

と嘆いたというから

そのワンマンぶりがわかります。

藤原氏でさえ、
天皇という脈々と受け継がれてきた

日本の歴史の頂点の存在があり、
その存在をないがしろにはできませんでした。

しかし、上皇はその天皇の父、
あるいは祖父であり超法規的存在です。

年齢と経験を兼ね備えた老獪な上皇に対し
幼少の天皇の力量はいうまでもないことでしょう。


 

 

  院政がもたらした権力闘争の行く末は

 

この白河上皇が亡くなると、
鳥羽上皇がそれまでの恨みを一気に晴らしに出ます。

崇徳天皇を罠にかけて退位させたといいます。
そして
自分の子で崇徳天皇の弟躰(なり)仁(ひと)親皇を
近衛天皇として即位させます。3歳でした。
しかし、17歳で亡くなってしまいます。
近衛天皇の兄であり崇徳上皇の同母弟雅(まさ)仁(ひと)親皇が
後白河天皇となります。

崇徳天皇は、上皇になっていましたが、
兄としては院政はできません。

自分の子どもが天皇になったわけでもありません。
いってみれば完全に干された状態です。
崇徳天皇の怒りは頂点に達します。
 
1156年、鳥羽上皇が亡くなります。
崇徳上皇は、後白河天皇を
力で引きずり下ろすことを考えます。

これが同年起こった保元の乱です。

兄の崇徳上皇と弟の後白河天皇は、
朝廷内の貴族同士の争いを巻き込み、
これに武士の力で決着をつけようとします。
本人たちは、一切戦おうとはしません。

それくらい公家たちは、血を穢れたものとして嫌いました。
結局武士たちは、
その公家たちが忌み嫌った
最も穢れた公家のできない難問を請け負い、
 

逆にいえば、

武士なくして政治は動かなくなっていたということです。
 
院政は、藤原摂関政治から朝廷が

権力を奪い返そうとした権力闘争で、
私的な争いとしかいえません。

その時世、公家からはおおよそ同じ人間としては
認められていなかった武士が
耐えて力を蓄え、
やがて自分たちの時代を築こうとすることになります。

今日も最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

 

 

 

 
 

 

 

 

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