平安末期、世も末だという末法思想
日本の古代から中世にかけて、
日本の政治権力は3つの勢力がしのぎを削ります。
基本的に日本の歴史では
だいたい次のように時代を区分します。
原始(ムラのみ)縄文・弥生中頃
古代(古代国家形成)弥生の邪馬台国~平安
中世(武士の時代)鎌倉・室町(戦国)
近世(武士による国家統一)安土・桃山
近代・現代(明治維新以降)明治~現代
実は、この時代区分は
マルクスによるところが大きいのですが、
だいたいこんな風に区分すると
生徒は流れをつかみやすいので
この区分で教えてきました。
実際には明確にいつからいつまでということはありません。
年表を見ても時代の境目には斜め線が入っています。
歴史の流れをつかむとおもしろく理解が進み、
歴史が自分といかに関係が深いかが実感できます。
歴史の上に自分の存在があるのは
疑いもない事実です。
ですから、歴史を知ることは自分を知ること
それは、将来を考える力にもなります。
そういうことを自覚して授業をしている先生と
そうでない先生では
恐らく天と地の差ほどおもしろさも理解力も
はては、人格形成にまで
差がつく、かもしれません。
教師の責任は大きいと思います。
古代は、日本が天皇を中心に中央集権国家を
築いていく過程です。
その過程で、
仏教を国家のいわば憲法的存在にしたところ
仏教勢力が一つの政治勢力となっていきます。
もう一つ、藤原氏が出世競争をしている間
地方の治安は乱れ、自分で命や財産を守るしかない
世の中になって行きます。
それが、武士です。
ということで、平安時代の末期、
世も末と思われていた時代です。
都で私利私欲のしのぎを削る貴族と寺社勢力
武士は地方で強くなった
都で私利私欲のしのぎを削る貴族と寺社勢力
藤原氏とともに大きな力を振るったのが仏教勢力です。
もともと鎮護国家の役割を担うことで
免税特権を得ていたところに、
藤原氏と同じように荘園を広げて財政力だけでなく
神や仏を使って政治力も拡大していきます。
つまり、要求が通らないと神や仏を恐喝の道具に使って
勢力を拡大していったわけです。
今でさえ、お神籤を引いたり、
神仏に祈ったりしているわけですから、
この時代の寺社の力は、
この世を超えた神仏の力にほかなりません。
簡単にいうと、神や仏の力をダシにして
好き勝手をしていたわけで、
こういう考え方は、
アジアも日本もヨーロッパも問わないようです。
天台宗の一つで仏教の在り方で対立した一派は
山門派(延暦寺)から独立し、
寺門派(園城寺)となりますが、
僧として認められるための「戒壇」を授けることができる
権限をもっているのは、延暦寺であったため、
寺門派は、朝廷に対して自分たちにも戒壇を認めるように
強く要求しました。
寺社は、荘園を管理するために私兵である僧兵も抱えており、
要求が通らなければ、神や仏のタタリがあるぞと脅すわけです。
藤原頼道はこうした問題にも
対処しなければならない時代となっていました。
増兵というのは、武蔵坊弁慶を思い出していただくと
わかると思いますが、寺社は弁慶のような私兵を
たくさん抱えて既得権益を守ろうとした
ということです。
興福寺の僧兵 ウィキペディアより
藤原道長の頃は、刀伊の入寇の事件の時のように、
まだ、何が起こっても対岸の火事のような他人事で、
宮中では、決まり切った儀式や行事、
宴を行っていればよかった時代です。
そういう時代だから、
女性が活躍する国風文化も育まれる余裕もあったことは事実です。
しかし、長い間の政治の滞りは限界に来ていました。
武士は地方で強くなった
藤原頼道の時代は、
末法思想が流行する時代でもありました。
ブッダが入滅後もその教えが生きている時代(正法)から、
悟りを開くものがいなくなる時代(像法)となり、
入滅後1500~2000年たつと世が乱れる時代(末法)
となるというのです。
当時はそのブッダの入滅後の時期と
災害や戦乱といった世の風潮が重なり、
末法元年が1052年とされていました。
貴族たちは、せめて来征は極楽浄土へ行きたいと願い、
藤原頼道は平等院鳳凰堂(創建1052)を完成させました。
藤原道長が存命の時は、その邸宅でしたが、
藤原頼道は隠居後を考え寺院として改築しました。
本来「阿弥陀如来堂」といいますが、
後世に鳳凰堂と呼ばれるようになりました。
こうした中で、
早くから中央で政争に敗れた源氏や平氏も
それぞれ関東や関西に住みつき、土地を耕し、
自ら武装して土地や一族を
守らなくてはならなかったわけです。
源氏や平氏は、もともと皇族でしたが、
都で仕事に就くことができるのは、限られており、
皇位を継がないものは、姓を賜り臣下となります。
これを臣籍降下といい、
清和源氏は清和天皇、
桓武平氏は桓武天皇
にゆかりがあります。
平氏は、まさに桓武天皇が遷都した
平安京にかかる名です。
都にいることのできなかった源氏や平氏などの武士は
地方に下るしか道はありません。
警察や裁判沙汰が起こっても
法があってなきがごときの時代に
武士たちは自分たちで治安を守り,生活をつくるしか
ありませんでした。
一人の武士より武士団としての力は
何かあったときに頼りになるのはいうまでもありません。
源氏や平氏の武士団は、
中でも強力な一団であったわけです。
所有権もはっきりしない未開地で土地争いは日常で、
そうした関東で起こったのが、
平将門の乱や平忠常の乱となっていきます。
身分は低く暮らしは貧しく、厳しい毎日であり、
源氏は藤原氏にさぶらう存在となって
関東や東北にその地盤を固めようとします。
中世は、朝廷と寺社の勢力に
こうした武士の登場(幕府)がいどんでいきます。