藤原道長・頼通の頃の平安時代

 

大河ドラマ「光る君へ」との関連番組は
NHKの『歴史探偵』でもありましたが、

NHKBSの『英雄たちの選択』で藤原道長を
特集(再放送)していました。

この中で、あの「この世をば…」と詠った藤原道長が
これまでの権力欲むき出しの人物ではなかったようだ
という始まりでした。

正直いって、私の藤原道長イメージはよくありません。
そして、最近80年前のあの戦争の敗戦原因を調べていくうち、
そこに、結論がつながっていきます。

あくまで歴史専門かでない素人のごく普通の一般市民の
意見で、一笑ものかもしれませんが。

本当は、歴史の専門家が分析すべきですが、
80年たってもいまだアメリカの物量に負けたなどという考えが
生きていて、きちんとした分析が成されません。

外交文書がまだすべて公開されているわけではない
という事情もあるのかも知れませんが。

日本には、永遠に続いている組織上層部の
密室体質があるのではということです。

それが、腐臭を放つとき、日本の歴史は大きく傾き、
最大の危機を迎えています。

あの戦争については、いつかとりあげますが、
今日は、

『節約社長夫人、重箱の隅を楊枝でほじくる』さんの

ブログの中にその一端がよく著されておりましたので、
リブログさせてください。

 

 

末法思想の頃の平安時代

 

B面平安時代-武士の登場

 

 

  末法思想の頃の平安時代

 

大化の改新の折に功績のあった中臣鎌足は、
藤原姓を賜り、
しだいに朝廷の中で重要な地位を占めていきました。

奈良時代、聖武天皇の時初めて皇族以外の女性の皇后として
藤原不比等の娘である光明子が光明皇后となり、

以来藤原氏は、娘を天皇の后に据えることで自ら天皇の外戚、
つまり天皇の義父などの立場である
親戚となって人事権までもち、

幼少の天皇の時は摂政として、
成人してからは関白として補佐していきます。

というより、思うがままに政治を動かしていきました。
最盛期は、平安時代の11世紀道長の時で、

3人目の娘を天皇の后にした時の宴会で

この世をば 我が世とぞ思う望月の 欠けたることもなしと思えば

と詠んだといわれます。

記録していたのは、道長のライバルというのがわかりやすい
藤原実資(さねすけ)の日記だったといわれます。
 

宴会で酔いも回り、ふと口にでた歌ではないか、
と「英雄たちの選択」に出演している方たちの意見でした。

「この世は自分のためにある」といった和歌です。
この歌が、藤原道長の傲慢さを決定づけてしまっている
とも確かにいわれても仕方ないかも知れません。

 

こうした藤原道長の権力基盤の安定した中

紫式部の『源氏物語』

清少納言『枕草子』

 

などの国風文化が

今に残した影響は大きいことはいうまでもありません。

その権力の座にあったのは実質30年ですが、
ただ、確かに藤原道長が摂政であったのは
1016~1017年の約一年のみで、

それを継いだ息子の頼道は、
1067年まで50年間、摂政・関白の地位にありました。

しかし、ひたすら敵を追い落とし独占企業のように、
権力を我がものとしてきた父と異なり、

兄弟同士の権力争いが避けられず、
娘が生まれなかったこともあり、
長期政権でも、心は穏やかではなかったようです。

自分の身内のことしか考えていなかったのが
この藤原氏の摂関政治の時代ではないでしょうか。

743年の三世一身法後も、
天皇の外戚としての財政力で新しい土地を開墾して荘園を広げ、
不輸不入の権も手に入れました。

自分の荘園には国の役人の調査もないし、
税も取れないということです。

つまり、公然とした脱税システムと
井沢元彦氏は述べています。
 

 

  B面平安時代-武士の登場

 

この頃の地方政治は、
中央から国司が派遣されるのですが、
なりたい下級貴族が後を絶たなかったといいます。

朝廷に決められた税を納めさえすれば、後は自由です。

監査もなく、賄賂、税と称して行う収奪、犯罪などは、
当然起こりうることで乱れない方がおかしいのです。

治安を担当する中央の刑部省や兵部省はありましたが、
開店休業状態でした。

理由は、
貴族たちが犯罪や血なまぐさい抗争を嫌ったからです。
そのために、
法律にはない令外官として検非違使がつくられ、
身分の低いもの(武士)が担当しました。
 
1019年に刀伊の入寇という大事件がありました。
のちに金や清を建国する大陸のツングース系女真族が、
朝鮮半島の高麗から対馬、壱岐を襲い、
老人や子どもを含む400人以上を殺害、
数千人を連れ去りました。

拉致はこの頃からすでに存在しています。
そして北九州を襲います。

当時太宰府には、
摂関家の藤原氏との政争に敗れた藤原隆家が赴任しており、
これを朝廷にも報告したものの、
援軍もないまま1週間で撃退します。

これを聞いた前太政大臣道長(すでに頼道の時代だったが力は健在)は
自分で勝手にやったのだから、褒美はない」

と無視したということが伝わっています。

こんなことですから、
国内も平穏ですむことはありません。

10世紀に平将門の乱が起こった関東で、
1028年その火種が再び平忠常の乱となります。
1051年東北出羽で前九年の役、
さらに1083年に後三年の役が勃発します。

朝廷は武士の力を借りてやっと鎮圧します。

元寇の折、モンゴルを破った北条時宗ら鎌倉武士に
朝廷は、ほとんど褒美はありませんでした。

そして、兵230~240万人が亡くなった80年前のあの戦争で、
現場で死闘を展開している中、
7割が餓死だというのに、
 

陸軍上層部の一部は、現場から離れたり
優雅な生活をしたりしていた
ということがわかってきました。

ユダヤ人数千人の命を救った杉原千畝が
戦後になってから免職されているというのに、
 

作戦に失敗した軍上層部は処罰どころか栄転しています。
そして、戦後も生き延びている事実がわかってきました。

 

そして今も…

今日も
最後までよんでいただき、ありがとうございます。
            
にほんブログ村 歴史ブログへ

にほんブログ村

 


にほんブログ村 にほんブログ村 哲学・思想ブログ