こうして「中華思想」がつくられていった

 

連日、能登半島地震のニュースが伝えられ、
震災関連死が,実際の地震による死亡より多いということも
伝えられていました。
心が痛むばかりです。

そんな中、月面着陸に成功した

JAXA探査機SLIMのニュースは
暗い世の中に光をもたらしてくれました。
 

日本は、科学と技術のものづくりの国であることは
現在も健在です。

 

そして、私たちは、漢字と仮名という

日本語とを通してのみ、優れた考えを

導き出すことができています。

 

その基礎ができたのは、平安時代であり

「仮名」という偉大な発明にあることに

感謝する気持ちになります。
 

唐の後、五代十国はほぼ異民族の興亡

現代につながる「中華思想」の完成

 

  唐の後、五代十国はほぼ異民族の興亡

  
日本が遣唐使を廃止した頃
唐は、成熟から衰退へと向かっていました。

唐の時代に均田制が崩壊し、
税の一つであった府兵制としての徴兵ができなくなりました。

そこで募兵制、
つまり兵を募集することとなりました。

その統括が節度使で、
唐の辺境で兵の統率を担当していました。

中央の統率が届きません。
そのうち行政権も得て、
独立した地方政権のようになっていきました。

その一人が756年に安史の乱を起こした安禄山でした。
この乱の後、唐は弱体化して

この節度使たちが、
唐滅亡後の五代十国の
それぞれの支配者となっていきます。

唐は907年後梁の朱全忠に滅ぼされます。
朱全忠は漢人だとされています。

しかし、後梁を滅ぼした後唐、後晋、後漢
すべて西突厥沙陀族のトルコ人。
五代(華北)の最後後周は漢人のようだと
としています。

岡田英弘著「中国文明の歴史」(講談社現代新書)

 

十国は江南・華南にあった国々です。
五代十国 
五代十国 世界の歴史まっぷより

 

宋は、この五代十国の一つである後周の武将であった
趙匡胤が960年に建国し、
2代目太宗がこの節度使たちの五代十国を抑えて、
979年、久々に中華文明地域を「統一」しました。

多くの本は宋の「統一」と書いています。
しかし、その周りには、
宋の領土と匹敵する騎馬民族モンゴル系の契丹が北にあり、
北西方には西夏(中華王朝側の名前、大夏)

その先、宋の西隣には
チベット系タングートの吐蕃(中華王朝側の名前)があります。

宋は、そうした北方民族に周囲を囲まれているかのようです。
さらに、中東には、セルジュク朝トルコが勢力を伸ばしていました。
 
宋の領土を統一というのであれば、
現在の中華人民共和国の領土は、
そうした北方民族の領土に入り込んでいます。
このことは、11世紀の地図を見るとよくわかります。

もう少し具体的にいえば、
現代のチャイナの面積の6割は
チベット、ウィグル、内モンゴル、満洲で
漢民族ではありません。
 
宋は、中央集権化を進めるために、
科挙試験を強化して皇帝自ら面接する「殿試」を導入します。

試験は極めて難関でかつ、皇帝自ら選抜して合格した文官は、
皇帝の命によく従ったといわれます。

こうして唐以来、
中央に刃向かってきた節度使は弱体化していきます。
宋

西夏、契丹、北宋 世界史の窓より

 

 

  現代につながる「中華思想」の完成

 

唐の時代中央を悩ませた節度使は弱体化するのですが、

それは、

軍事力そのものも弱体化を意味します。
 

契丹や西夏は次々と宋に攻め入り、
結果として和議を結ぶことになります。

和平の条件は、
宋が契丹、西夏に

毎年大量の銀や絹を支払うという内容でした。

宋はこれを屈辱として、
自らを正統の「中華」だ、「漢人」だといい、

司馬光は歴史書「資治通鑑」で
宋の正統性を主張します。

そして、自分の国以外は、

どんなに軍事力を持とうが、
領土が広かろうが文化のない野蛮人なのだという、
現実を直視しない「中華思想」が認められていきます。

いってみれば、現代「中国」というのは
こうした「中華思想」をもった「中華王朝」
の歴史です。

しかし、気をつけなければならないのは、

王朝名はご存じのとおり全て異なり、


「中国」と呼べるのは

「中華民国」と「中華人民共和国」だけです。

しかも、国際的な国名は「チャイナ」を基調としています。
どこも「chugoku」とはよんでいません。

「中華王朝」の歴史は、

「中華思想」の流れかもしれませんが、
 

日本の歴史のように

同一国家の歴史ではありません。

実際、この頃朝鮮半島で建国の高麗(918~1392)は、
現在のコリアの語源となっている国ですが、

宋ではなく、

契丹の年号を使用していたということです。

 

周囲の国家が「宋」をどのように見ていたか
実態がわかります。

宋は、和議の支払いと軍事費で財政難に陥ります。
6代神宗の時、宰相の王安石が富国強兵策を打ち出しますが、

神宗が亡くなる(1085)と司馬光が宰相となり、
王安石の改革を全て破棄してもとに戻してしまいます。

時代は急速に変化しているにもかかわらず

現実を見ようともせず、
 

建国時の正統性にこだわるとどうなるか、
歴史上何度も起こっている亡国の原因の一つです。
 

我が国も他人事ではありません。
                  

 

今日も最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

 

 

 

 
 

 

 

 

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