ヨーロッパ中世は宗教なしでは語れない

昨日のブログで、
古代においては日本はチャイナから日本は多大な影響を受けたが、
近・現代においてその立場は逆転している
ということに触れましたが、

またこんな記事が目に入りました。↓

 

日本企業もさすがに気づいたことや
チャイナの将来性を見通したのでしょう。

 

 

海外投資有望先の順位を1992年以来3位に落としています。
最新日本企業有望投資先候補
第一位インド  第二位ベトナム  第三位チャイナ


今日は、視点を西側に移し、

西ローマ帝国滅亡以来のヨーロッパです。
日本ではまだ「古代」と呼ばれる時代ですが、
ヨーロッパは「中世」に入ります。

 

ローマ教会VSビザンツ帝国(ギリシャ正教)

西ローマ皇帝VSローマ教皇

 

  ローマ教会VSビザンツ帝国(ギリシャ正教)


中世のヨーロッパは、キリスト教が支配する世界でした。
その頂点に立つのが、ローマ教会のローマ教皇です。

ローマ教会は、ローマ教皇を頂点に
大司教、司教、司祭とピラミッド型の組織でした。

ところが、皇帝や国王が、
大司教などを任命する権限(聖職叙任権)をもっていました。
これは、諸説がありますが、次のような経緯があります。
 
紀元392年、ローマ帝国内で国教となったキリスト教でしたが、
その3年後ローマ帝国は東西に分裂し、
東ローマ帝国(ビザンツ帝国)下で
コンスタンチノープル教会が勢力をもつようになります。

その後、西ローマ帝国が滅亡して

後ろ盾を失ったローマ教会は、
 

ゲルマン人国家のフランク王国を、
キリスト像やマリア像を使って
キリスト教主流のアタナシウス派に改宗させるとともに、

教皇が神の代弁者としてフランク国王をローマ皇帝に戴冠、
つまり認めてやることで、

ビザンツ帝国に対抗しようとしました。

要するに、神様が絶対の時代に

神様と通じているという教皇が
神の世界の下にある人間界の最高偉い人ということで
 

かつて(ヨーロッパ)世界を支配した
ローマ皇帝というお墨付きをあげたということです。

ローマ皇帝は神様が認めてくれたようなものだからうれしいし
偉くなった気分になれるし、
 

ローマ教皇は、実際ビザンツ帝国と張り合っていて
負けたくなかったため
軍ももつローマ皇帝を利用するということです。

つまり、神という権威を持つ教皇と
軍や統治という権力を持つ皇帝が
互いの力を利用し合っていたということでしょう。

ビザンツ(東ローマ)帝国については
私が高校(50年も昔になってしまった)の時、
皇帝教皇主義としていましたが、

どうもむしろ、西側(ローマカトリック)より
皇帝と教皇(ギリシャ正教)がより一体であった
とすべきのようです。(こんな書き方しかできません)

ビザンツ帝国は貿易などで初期は
大変勢い盛んで
一方西ローマ帝国は476年に滅びましたから、

ビザンツ帝国は、ローマ教皇なんてそんなものいらん
という感じだったのです。

ですから、西のローマカトリック教皇としては
これに対抗しなければ、ヤバイと思ったということです。

ややこしいのでちょっと整理すると
実は歴史上西ローマ帝国と呼べるのは3つありました。
 

①    395年テオドシウス帝の時の東西分裂した時の西ローマ帝国
②    800年ゲルマン・フランク王国がローマ教皇から

  認められた時の西ローマ帝国
③ 962年フランク王国分裂後の東フランク王国の

  オットー一世の時の西ローマ帝国

そして、この③の(西)ローマ帝国を
神聖ローマ帝国と呼ぶようになります。
ちょうど現在のドイツあたりにその国はありました。
 

 

  西ローマ皇帝VSローマ教皇

 

しかし、ローマが含まれていないため、
皇帝はイタリアを領有しようとします。

その隙を見て、
神聖ローマ帝国内の300もある諸侯(貴族)たちが、
勢力をもち、皇帝の統制がきかなくなります。

皇帝は、領内に教会を建てさせ、
教会の権威で諸侯たちを勢力下に治めようとしました。

司教や修道院長になると土地や財が手に入るため、
聖職者でない領主などの世俗勢力が
金銭で地位を買おうとするようになります。

教皇は、腐敗を根絶することと、
そのための叙任権を取り戻そうとして皇帝と対立を深め、
皇帝を破門することまでします。


ローマ教皇
有名なのが,上にあるように↑

1077年、神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世が破門を恐れて

北イタリアのカノッサ城にいた

ローマ教皇グレゴリウス7世に

 

雪の中3日間を許しを請うたという、

教皇の方が偉かったということを見せつけた

「カノッサの屈辱」事件。

 

この事件は、例の司祭任命権である(叙任権)

を巡り、その権限があくまで皇帝にあるということを

主張した皇帝ハインリヒ4世を

 

教皇グレゴリウス7世が皇帝が廃位しようとしたら

皇帝が逆ギレしたのですが、

教皇が廃位を決定したところ、

 

皇帝をよく思っていなかった部下たちが一斉に

反抗したので皇帝は謝罪するしかなかった

という事件です。

 

この時代は破門されると生きていけない時代です。

 

ただ、これで教皇が皇帝に対して

決定的優位になった

わけでなく、1122年のヴォルムスの協約まで続きます。

 

ややこしいのです。
 

そうした中、エルサレムがイスラム世界の主勢力となった
セルジュク朝トルコに占領されてしまう事態が起きます。

ローマ教皇ウルバヌス2世がエルサレム奪還を目指し、
十字軍を募ります。
キリスト教世界は、一気に教皇を中心に盛り上がり、
教皇の権威が不動のものとなりました。
  
エルサレムは、ユダヤ教の聖地であり、
イエスキリストが十字架に架けられた聖地であり、
イスラム教の聖地でもあるのです。

この三つ宗教は、同じ神を信仰する一神教ですが、
ユダヤ教やイスラム教は、偶像崇拝を認めませんし、
神とキリストと精霊を一体とするキリスト教アタナシウス派
とも考え方が異なります。
 
十字軍は、第一回目だけは、エルサレムを奪還しますが、
残りの7回(6回)は、目的より殺戮や掠奪がひどくなり、
悲惨な結末で失敗します。

子どもを派遣して奴隷に売られたり、
国王自ら赴いて途中でおぼれ死んだり、
エルサレムを取り返しに行って、
同じキリスト教国のビザンツ帝国を滅ぼした
第4回十字軍もありました。

イスラム世界が分裂していた頃の第一回十字軍を除き、
イスラム軍は圧倒的な強さでした。

結局、1096年から約200年かけた十字軍は失敗に終わり、
教皇の権威は地に落ちます。

それはヨーロッパが次の時代(近世)を迎える
予兆の始まりでした。
 

ちなみに、今でも欧州では、屈辱的な謝罪を

「カノッサの屈辱」というそうです。

なんかそんな番組もあったような。

 

今日も最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

 

 

 

 
 

 

 

 

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