平安時代に唐は滅んだ

大河ドラマ「光る君へ」が始まりました。

紫式部が、世界初の女性の長編小説

 

「源氏物語」を書くことができた背景、

ここに東アジアの国際情勢はかかせません。

 

唐滅亡後はまた分裂戦乱の時代

長い分裂を統一した宋は極めて弱体

 

  唐滅亡後はまた分裂戦乱の時代


唐では9世紀後半、
日本では平安時代の頃、

皇帝武宗(在位840~848)が、
道教を信仰して全国で仏教弾圧を行いました。

寺院4600あまりを破壊し、
26万人あまりの僧籍を奪って強制的に一般人にしました。

背景には寺院への税免除配慮が

逆に朝廷の財政難を招き、
権力の逆転現象が起きたともいわれます。

つまり、

日本の奈良時代の道鏡が天皇に取って代わろうとしていた
そんな雰囲気に見舞われたということだと思います。

お釈迦様(ブッダ)は、人生を苦ととらえ、
その苦から逃れてよりよい生き方を教え、

自ら悟りを開きました。

仏教は、

お釈迦様の教えとして日本を含むアジアに広まりましたが、
 

この頃は、入滅して1500年にも達し、その教えは
お釈迦様の教えとはだいぶかけ離れたものになっていたはずです。

この時日本からは、
最澄の弟子円仁が僧として留学(期間838~847)していました。
その様子は極めて貴重な

「入唐求法巡礼行記(にっとうぐほうじゅんれいこうき)」に記録され、

仏教だけではなく、
キリスト教ネストリウス派、
ゾロアスター教、
マニ教なども
弾圧されていたことがわかります。
  
唐は、907年に漢人である朱全忠によって滅ぼされ、
後梁となります。

以後50年あまりの間にこの後中華文明がおこったとされる
黄河中下流域であるいわゆる中原に、
後唐、後晋、それを受け継いだ後漢(こうかん)と
目まぐるしく多くの国がおこっては滅亡しました。

その支配者は、
全て北方民族の一つである

西突厥の一族であるトルコ人でした。
 
北方民族というのは、
モンゴル高原やその周辺で遊牧や狩猟などを営む民族で、
モンゴル系、チベット系、トルコ系、ツングース系などがあります。

古くは、五胡十六国の、鮮卑、匈奴、氐、羯、羌であり、
唐と同時代では、
突厥、ウィグル、キルギス、
モンゴル系の契丹やチベット系の西夏、

この後、モンゴル民族が世界帝国を築き、
また、金や清をおこしたツングース系の女真族がいます。

一方同じ時期にその周辺やその南部に
多くの大小地方政権が興亡しました。

その中でも
前蜀(ぜんしよく)、

後(こう)蜀(しよく)、

呉、

南唐、

荊南、

呉越、

閩(びん)、

楚、

南漢、

北(ほく)漢(かん)

を十国といっています。

この辺になってくると、世界史を専攻して
唯一の得点源としてきた私でも
ごちゃごちゃしてきます。
 

要するに、大陸に戦乱が続いており、
こうした戦乱の方が、チャイナがいわゆる統一していたときより
長いということです。

「いわゆる統一」としたのは、
実はチャイナは一度も一つの国になったことはない
というのが歴史家の宮脇淳子氏です。

逆に拡大するときは、他をものみ込みます。
もっとも、逆もあるわけですから、
歴史は繰り返しです。

宮脇淳子著「かわいそうな歴史の国の中国人」(徳間書店)

によれば、
現代のチャイナにしても
チャイナ国土の64%が少数民族の自治区です。
その少数民族の人口はわずか8%です。

全部で55(建国時は6)の少数民族がいるそうですが、
中でもさっき出てきたチベット、ウィグル、内モンゴルは
当然漢字も使わないし、言葉も異なります。

しかし、どうなっているかといえば、
多くの報道が成されるとおりです。

 

つまり、

日本は、漢字使っているし、昔から朝貢してきたし

中国人もいっぱい住むようになったし、

だからもともと中国だよね。

その方が幸せだよ。

 

ということです。
 
 

  長い分裂を統一した宋は極めて弱体

 

960年、漢人が支配した五代最後の王朝

後周(こうしゆう)を滅ぼした北宋は、
その後十国といわれる地方も平定し、
979年に久々に中華王朝「統一」を果たしました。

多くの歴史書には「統一」と書かれています。
とにかく、それまでの戦乱は終わらせることができたのです。

しかし、燕雲十六洲は、
北方民族の契丹(916~1125)(中華王朝風の名が遼)
の支配下でした。

燕雲十六洲とは、燕洲(現北京)周辺と雲洲(大同)付近のことで、
万里の長城の南側です。
秦が統一した時には、
その秦が築いたわけですから、
しかも現首都付近が北方民族の支配下にあったということです。

西には、西夏(1038~1227)、
さらには金(1115~1234)がおこり、
宋を圧迫しました。

その軍事費は常に宋の財政を圧迫しました。
  
まとめてみると、
唐滅亡後、異民族の侵入で分裂、
抗争の五代十国の時代を迎え、
それを抑えた宋も弱体だった。
ということです。

菅原道真は、こうした大陸の状況を読み込んだ上で、
遣唐使廃止を進言したわけですから、
これほどの英断はなかったというべきです。

日本は、
この大陸で

何度も国が滅んだり分裂したりしている間、

極めて安泰でした。




今日も最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

 

 

 

 

 

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