今日は一段と冷え込んでいます。

京都でも初雪だそうですね。

 

「貞観政要」を学ぶことができ国は?

 

唐が勢力を伸ばした頃、

天智天皇は、それに備えて

国内の防備体制を強固にしたことは

このブログでも触れました。

 

では、衰退した唐がどうして脅威なのでしょう。

 
唐第2代皇帝李世民(太宗)と臣家の政治討論
「貞観政要」という帝王学の教科書といわれる記録があります。
渡部昇一氏を始め出口治明氏など

解説を書いてくれているので
私も読みました。

なにしろ、徳川家康や明治天皇、北条政子も読んだ?
といわれているらしい。

恥ずかしながら、

その手のレベルでは到底ありませんが、
 

組織の長となったとき
少しでも皆のために何ができるかと
誰にでも、どんなことでも学べという精神です。

どんなことが書いているかというと、
まず、謙虚であれ。
 

リーダーは偉いのではなく機能だ
破滅は外部ではなく自滅にある。               
 

とにかく、人の話を聞け。特に耳の痛いことを。
そして、判断にはぶれない軸を持て などなど

 


 

玄宗は「貞観政要」に学ぶことができたか

唐の衰退と日本の対応

 

  玄宗は「情感政要」を学ぶことができたか


そして、
唐は第7代玄宗(在位712~756)の時、
最盛期を迎えたとされ、「開元の治」といわれました。

というより、引き締めを図り盛り返したという感じです。
とはいえ、内情は、立派な政治とはいいがたいものです。

唐は最初ササン朝ペルシャ(226~651)と
その後のウマイヤ朝(661~750)と国境を接していました。

そして750年、ウマイヤ朝に代わったアッバース朝と
751年中央アジアのタラス河畔(現キルギス)で激突しました。

唐は大敗しました。
この時唐軍の将軍、節度使の高仙芝は高句麗出身、
その指揮下のトルコ系部隊が寝返り、
数万の死者と捕虜が出ました。

多くの捕虜が連れ去られた際に、
唐からイスラム帝国に紙の製法が伝わったとされます。

イスラム文化は、

この紙の製法を手に入れることで花開きます。
 

ちなみにイスラムとは「神への従順」であり、
「平安教」とも訳せるそうです。
 
また、756年には、
節度使のイラン系ソグド人安禄山が、
玄宗の緩んだ政治の隙を狙い安史の乱を起こします。

一説によれば、玄宗はあの楊貴妃の美貌に狂い
政治を疎かにしたことに対する反乱とも。

この乱は9年にも及び、
結局、唐はウィグル軍の支援を受けてこれを鎮圧しました。
 
これでおわかりのように、
唐は国際色豊かな国でしたが、

それはすでに他民族の力を借りないと
統制不可能になりつつあったということにほかなりません。

節度使というのは、唐辺境の防備をする重要な役職で、
これまで均田制に基礎を置く府兵制、
 

つまり国家が土地を貸与するその代わりの税として
農民が兵として徴用されていたわけですが、

経済発展を遂げていた唐は、激しい貧富の差が生じます。
インフレや重税で貧困となった農民は逃亡し
均田制は機能せず、
兵を募集しなければなりませんでした。

節度使はそれらを統率する辺境の将軍ですが、
中央集権の手綱はすでに切れて命令は行き届かず、

外国人節度使が、軍の指揮だけではなく、
行政に関わる大きな権限を握っている状態でした。

安禄山は18万人の兵を指揮していたといわれています。
 

つまり、

税の徴収がままならなくなった中央は、土地売買を許可。

すると、財力のある有力者が対土地を所有、
豊富な財力で官僚を買収、
治安維持を名目に私兵で軍事力も巨大化します。
 
都の長安、人口100万を支える食料は、
大運河を使用して運搬されましたが、
 

安史の乱以降は、政治不安から運河は通行禁止となり、
食料価格の暴騰で多くの餓死者も出ました。

「貞観政要」の教えを学び、それを生かしたのは、
それを書いた当該国でも子孫でなく、
海を隔てて東にある異国であった

ということになるのでしょうか。
  
安史の乱は、
日本にも唐の隣国である渤海に派遣された

使いから報告されています。

 

  唐の衰退と日本の対応

 

これを読みながら、危機感を募らせた方は
多いのではないでしょうか。

「歴史は繰り返す」とすれば、
現代にも当てはまらないとはいいきれません。

隣の大陸にある国の歴史は、

国の名前が全く変わる
つまり、全く別の国になるということです。

 

最も、唐は隋の煬帝を歴史上最悪の暴君として

煬帝という諡号(死後の名)をつけています。

「煬」とは、天に逆らうということらしいです。

 

そして、唐は

運河や制度などは、しっかり(ちゃっかり?)受けついてでいます。
秦を受け継いだ漢も同じでした。


だいたい、この国は、その歴史上の国ごと
為政者は別人だし、民族すら異なるのが事実です。

すでに大陸のGDP世界第2位の国は
経済重視から安全保障重視に転換したと
多くのマスコミが報じています。

 

これが何を意味するかということです。

990万人の富裕層は、すでに資産を海外に移し、
日本の土地やタワマンも買われ続けている
と公然と報じられるようになりました。

同じように

巨大帝国唐の衰退とは、
そのマイナスの波及効果は
計り知れないということです。

当時孝謙(重祚して称徳)天皇の母の甥でもあった
藤原仲麻呂は、

安禄山の兵が日本に侵攻することを恐れ、
新羅への日本軍を派兵しようとしていました。

この時これを阻止したのが、僧道鏡でした。
道鏡は、孝謙天皇とのよくない関係で有名になっていますが、

孝謙(称徳)天皇は、
こうした経緯から藤原氏の台頭を抑えるためにも
道鏡を頼りにしたことが、
道鏡への天皇禅譲というところまで及んだという説もあります。

天然痘に自然災害、反乱に加えて

対外的危機。

 

コロナに地震、経済の低迷

対外的危機(世界が不安定)

 

いつの時代の話でしたっけ。?

 

恐怖を煽るのではなくまず、

対処するためにも

目を開けて現実はしっかり見ることは

大切だと思います。

今日も最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

 

 

 

 



 

 

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