古代「仏教」は国家の礎だった

 

命がけで国のためにというと、

何を思い出すでしょうか。

 

どちらかというと、

戦後世代の我々は、マイナスイメージが強い

と思うのは、私だけでしょうか。

 

私が、教師の時に生徒に

将来を決めるときに考えてほしかったことは

 

自分のためだけに生きるほどむなしい人生はない

他人や社会のためになにかできることは、

必ず自分の人生を幸福にする

ということでした。
 

人間だけが信仰をもつ

鑑真が国禁を犯してまで日本に来たわけ

 

  人間だけが信仰をもつ


マルクスは「宗教はアヘンだ」といったそうです。
ですから、旧ソ連では宗教(ロシア正教など)は弾圧されました。
それで人々から信仰が消えたかというと
いうまでもなく、生きていました。

人間(を含めて)を霊長類というのは、
霊は、魂であり心であることを意味するようです。

英語で霊長類は「Primates」。
ラテン語の「primus」
あの「トヨタのプリウスprius」でしょうか?
(priusはラテン語で、~に先駆けて、でした。)

英語の「prime」=選りすぐりの、抜群な、最高級の
英語の「first」=「第一の」「最良の」「申し分ない」などの意味
から来ているようです。

プリウスはいい車だと思いますが、

 

霊長類は
英語の由来より霊=魂、心があるが、私としてはしっくりきます。
何がいいたいかというと、

たぶん人間は昔から死んだらそれで消滅する
とは考えていなかったということです。

唯物論はマルクス主義者だけで、
他のほとんどは、あの世は存在すると感じているはずです。

あの世ではなくとも、人間ではどうしようもないこと
人間以上の存在はあるわけです。

自然(災害)もしかり、宇宙もしかり。
そうした存在に対する畏怖の念をもつことこそ
宗教心の始まりだと思います。

それは、人間は「prime=第一」の存在ではなくて
もっと偉大な存在があるという意味で
人間を謙虚にしてくれます。
今、ロシアでは、キリスト教の一つであるロシア正教は
完全に復活しています。

日本は、チャイナから仏教についても、
多くを学んできたことは事実です。

しかし、日本においては、仏教は生活に根づいていますが、
チャイナは、現在仏教国ではないようです。
いつからそうなったのでしょうか。


中華王朝においては、
儒教や道教に比べて仏教は外来の宗教であり、
南北朝の北魏の頃からたびたび弾圧を受けていました。

唐が成立した段階では、
どちらかというと皇帝は道教を重んじていたものの、
仏教については寛容的であったようです。

629年、僧玄奘は、
仏教を学ぶためにインドに赴こうとします。

しかし、国外へ出ることは許されず、
国禁を犯して陸路インドへ向かいました。

莫大な経典と仏像をもち帰国したのは645年です。
玄奘はその旅を「大唐西域記」として著しました。

これが有名な玄奘である三蔵法師が
孫悟空や猪八戒などと旅する「西遊記」となります。
  

日本にとっては、
唐が仏教先進国であることには変わりありません。

奈良時代は、仏教は鎮護国家として国を支える学問であり、
「南都六宗」といわれる宗派が重んじられていました。

玄奘が持ち帰った法相宗は、

その「南都六宗」の一つです。

また、悟りを得るためにブッダが行った
厳しい修行を重んじる一派が律宗でした。

律とは「戒律」のことであり、
「戒」とは自らその決まりを守ろうとする心、
「律」とはその決まりです。

妻をめとってはならない、
剃髪をするなどがそれに当てはまります。

当時日本には、
その戒律を正しく理解して授けることのできる
僧が不在だったので、

742年遣唐使として聖武天皇の命を受けた留学僧の
栄叡(ようえい)、普照(ふしよう)らは、命がけで「戒律を伝える師」を求めたのでした。
これに応えたのが鑑真でした。
 

 

  鑑真が国禁を犯してまで日本に来たわけ

 

古典的名作ですが、井上靖著「天平の甍」は、
栄叡(ようえい)、普照(ふしよう)らの

本当に国のために命をかけた遣唐使の姿を
みごとに著した名作だと思います。

 

 

 

自分は、確か中学校の頃に読んだ記憶があります。
自分の人生ではなく、日本と仏教のために
10年、20年を異国で学び、そのすべてを持ち帰るのですが、
 

留学僧の一人業行は途中嵐にあい、

一生をかけて誠心誠意込めた写経、

いまでいえば最先端思想が命とともに海に消えます。
 

栄叡(ようえい)は、唐で命を引き取ります。
普照は、その時我を忘れて泣いたといいます。

 

その時、祖国をあとにして

すでに20年以上が過ぎ去っていたはずです。
20代であればすでに40代。

 

帰国できたのは、普照のみ。

鑑真は当時高僧で国の宝であり、

出国は叶いませんでした。
しかし、鑑真はこうした日本の留学僧の熱意に
命がけで国禁を犯し渡日を決意します。

742年から12年間で5度「密航」を試み、
難破や弟子の密告による妨害で失敗します。

そして、753年、6度目に弟子を含む20名とともに
日本の土を踏んだ時には、

すでに失明していたといわれます。

聖武天皇は、東大寺などに戒律を授ける施設をつくり、
鑑真和上の指導のもと、僧は戒律を授かることになります。
 
この後日本からは、
最澄や空海が新しい仏教を学びに遣唐使として渡ります。

唐には、インドから密教の高僧が渡来しており、
キリスト教ネストリウス派、
ゾロアスター教、マニ教などの宗教もありました。

特に長安は、

人口100万人もの国際性豊かな大都市となっており、
イラン人など西域からも商人とともにその文化も流入し、
国際色豊かな繁華街が建ち並んで、
西域の音楽やダンス、スポーツも盛んだったといわれます。

西域のものは「胡」で表され、
胡(こ)椒(しよう)、胡桃(くるみ)、胡(ご)麻(ま)、胡(きゆ)瓜(うり)、胡摩(ごま)、胡(きゆ)瓜(うり)など
日本にも見られます。

9世紀以降、唐では仏教が衰え、
それとともに、唐の国力も衰退していきます。

この時代、仏教は単なる宗教ではありません。

最先端の思想であり、学問でした。

国家の土台でした。

 

もともと仏教には、

神は存在せず、よりよく生きるための哲学

といったほうよい学問です。

 

アメリカの図書館では、仏教は

宗教ではなく哲学の棚にある

と聞いたことがあります。

国家の土台とは、実は今も昔も変わらないのです。
それは、その国家を支える人づくりであり、

わかりやすくいえば、精神的支柱です。
 

経済(カネ)は、必要で重要ですが、

あくまで生きるための道具であって
目的ではありません。

では、現在の日本の精神的支柱は何かと訊ねられたら
何と答えるでしょうか。

明確に答えられるでしょうか。
恥ずかしながら、私は答えに詰まります。

 

今日も最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

 



 

 

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