「十七条の憲法」 第十一条~第十四条

たぶん皆さんも余り読んだこともない

十七条の憲法全文に挑戦しています。

後半になります。 

 

摂政として、官吏に具体的な公務の心構えが、

強い姿勢で述べられています。

 

現代のような公務員の倫理規定等の法律がない中で

心に訴える公とはなにか、公務とは何かということを説いています。

 

古代において

私利私欲を排除する公の論理や倫理が

語られていることに

 

この国の歴史のもつ重みと大きな意味を強く感じます。

 

私たち日本人には、

古事記の時代からさらにこの聖徳太子の時代に

すでにこうした理念が明らかに存在したことに

驚きと感動をおぼえます。

 

具体的・客観的・合理的・実践的なリーダーの心得 国に二君なく 民に両主なし

第十一条 官吏の功績をよく見て、賞罰を必ず行わなければならない。最近は、功績によって必ずしも褒賞があるわけではなく.罪によって罰があるとは限らない。政務にあたっている官吏は、賞罰を適正、明確に行うべきである。
 

第十二条 諸国の国司や国造が.勝手に税を取ってはならない。国に君主は一人であり,民にとっても主人は一人のみである。民にとって、天皇だけが主人である。天皇から任命されている官吏はみな天皇に仕える者だ。その臣下の者が国の徴税だけでなく、民から私的に徴税することは許されるものではない

この国が天皇によって治められているのであり、

官吏はそのためにあることを第三条で述べ、

以後具体的に何度も繰り返し、

具体的に示していると思います。

 

太子の理想は明確であり、

しかし、

その理想と現実の落差は

いかんともしがたいほど大きいことが伝わってきます。

 

聖徳太子は

   「世間虚仮 唯仏是真」

世の中は、仮のものであって、仏のみが真実だ

といっています。

 

カネや地位に執着することが人を不幸にするという

仏教の教えが、ここにあります。

法隆寺夢殿

 

具体的・客観的・合理的・実践的とは

仏教の教えそのものです。

 

第十二条「勝手に徴税してはならない」、

第十一条「信賞必罰」などを示した

太子の強い姿勢を具現化するために、

十七条の憲法の前年に

人材登用のための「冠位十二階」を制定したのは、

先に述べたとおりです。

 

第十三条 国家の様々な官職に任命された者たちは、自らの職務内容をしっかりと把握しなければならない。病気や出張で職務に専念できない人もあるかもしれない。しかし.それが分かった場合には、自分の仕事としてその職務を代わりにしなければならない。担当者が不在であることや担当者が不在で職務が分からないと言って公務を停滞させてはならない。

いわば,基本的な職務規程であると考えます。

自分の担当している仕事内容を理解するよう正すとともに、

何らかの事情で担当者が不在の場合でも、

助け合って職務に専念し、

 

つまり「和」の精神で公務を遂行することの大切さを

明言しています。

 

このころすでに、

チームで助け合いながら仕事を進める

日本型労働システムが

存在したあるいは存在しつつあったのでは、

と思ってしまいます。

 

いつも生産性が低いといわれますが、

本当にそうなのでしょうか。

 

また,効率という点以外では,

よいこともあるのではないでしょうか。

 

第十四条 大臣や役人は、人をねたんではならない。人を嫉めば、その人にもねたまれることになる。ねたみには際限がない。つまり、自分より智が優れた人に対しては素直になれず、才能がまさっている人であれば嫉妬する。これでは、

五百年たとうが、千年たとうが、一人の賢者や聖人に出会うことはできない。聖人や賢者がいなくては、国を治めることは到底不可能である。

聖人や賢者とは、エリートのことだと思います。

日本では、エリートとかエリート教育というと

特権階級のようなイメージで嫌われます。

 

ここでいう私の考えるエリートとは、

スペインの哲学者オルテガのいう

断ることのできる責務をあえて受諾する者。自分自身の上に困難を積み重ねるものである

ということです。

 

「滅私奉公」ということばがあります。

使い方によってかなりイメージが異なるようですが、

極端な考え方もあり、

戦後は全く否定される傾向にあったと思います。

 

私も十代の頃は、

その極端なイメージを感じていました。

 

しかし、仕事を通してかなり考え方が変わりました。

私というより、

「我」つまり,「ガ」のみを通そうとすることの

恐ろしさとみっともなさをいやというほど経験し、

 

それはその本人だけではなく

周りも巻き込む不幸な生き方です。

 

仕事をしながら伝えてきたことは、

自分や家族を大切にしながら、

他の人や社会のためを考えた生き方、生活をしてほしい。

 

別の言い方をすれば、

他人が喜ぶことが実は自分の幸せになること

に気付いてほしい、

 

ということです。

 

日本には伝統的に「利他」

つまり、自分ではなくまず相手のことを考えよ。

という考え方があり、

 

最澄はこれ「亡己利他」

まで高めました。

 

他人のことを思うことが結局

自分の幸せになる

ということだと思います。

 

エリートとは異なりますが、

「おおやけ」の意味を理解し、

自分もその一人であることを実感し、

「おおやけ」を意識して生きていくことが、

公民(日本国民)として求められているはずです。

 

少しでもそんな人が多くなれば、

社会はもっと穏やかで住みやすくなると思います。

 

もちろん、

公務においては、

「私」と「公」は絶対に区別しなくてはなりません。

 

聖徳太子が求めているのはもっと厳しい、

自分が犠牲になっても社会や国家のためになるいわば、

現代でいえば、大臣や上級公務員への要求だと思います。

 

もちろん、

それ以上に厳しい要求を自分自身に突きつけてきたのが

聖徳太子だと思います。

 

これらの条文を読んで

共感や感動を覚えることこそ、

聖徳太子の精神が今に生きている証拠です。

聖徳太子の肉声が感じられるのが

「十七条の憲法」だと思います。

 

 

今日も最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

 

 

 

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