清朝末期と江戸幕府末期何が違ったか

 

1840年アヘン戦争が起こります。
中学校でも「アヘン戦争」で習います。

しかし、考えて見ると「アヘン戦争」という歴史的名称として
残っていること、

普通戦争対象国名や地域名場合によっては年号だったりしますが、
「アヘン」という恐ろしい麻薬の名前がつけられているこの戦争は
特異です。

この戦争前にこのアヘンの対策に当たった林則徐は、
まれに見る、といういい方をしていいか分かりませんが、
国士です。

そして清朝は、この林則徐という国のために尽くした国士を
いわばアヘン戦争のツケ代として
処分しました。

こういう場合、

国も組織もその先行きは危ういと見るのが普通です。
案の定,清朝は滅びます。

大陸の片隅の小さな国といったイギリスに
世界の大国といわれた清国がのみ込まれていきます。

この違いは、清朝皇帝が国を私物化しているのに対し、
イギリスはいち早く国民国家、

すなわち国益は国民の利益である、
私がすなわち国家であるという意識の近代国家に

変容したことによるものです。

もちろん、

イギリスのやったことは決してりっぱなことではありませんが。

昨日のブログでこのイギリスのやり方は清朝に通用したが
日本には通用しなかった、と述べました。

これは明らかなように日本の役人、つまり武士たちは
国民国家ではありませんでしたが、
国家(藩主)のため私欲を捨てていた風土があったからです。

私欲を先にするのは,生き方として恥じであり、屈辱なのです。
逆に命を賭して尽くすのは名誉であり、誇りでした。



この風土は、明治の国民国家になっても生きていきます。
では、現在も生きているかといえば、
かなり怪しいと思っている人は多いと思います。

 

19世紀末、アジアの大国オスマン帝国、清、江戸幕府

いずれも衰えていました。

 

変わって台頭してきたのがヨーロッパの列強です。

 

  カネを払っても道徳の話を聞いていた江戸時代

 

江戸時代、細井平洲(1726~1801)という儒者がいます。

十人に三人とも、不良の臣つかうまつれば、七人の忠良は有りてもなきが如し
(職場で十人中三人がよくなければ、残り七人がまともでも無力化される)

といっています。

人間は、必ずしも強いわけではありません。

細井平洲は儒者で道徳を説くと

たちまち人だかりができて、皆銭を払ったといいます。

 

それを知った米沢藩、上杉鷹山が則、抜擢採用したそうです。

細井平洲は必死に鷹山に説いたそうです。

 

自分の飢えや冷える苦しみより

子供の飢えや寒さを嘆き悲しむのが人の天性。

民百姓を飢えから救うのは殿様しかいない。

臣民と艱難を分かち合ってムダをはぶき、民を救ってほしい。

しかし、上杉鷹山が大改革を決意しても

既得権益にしがみつく家臣がいる。

 

その抵抗を抑えるためにも

志あるまっとうな人材で固める必要があるということです。

磯田道史著「日本人の叡智」(新潮新書)

 

何かを成すとき、一人では決してできません。

隣の国の外務大臣が行方不明だと報道にありました。
体質は、今も昔も変わらぬようです。

しかし今の日本、

かつての清朝の林則徐のような国士がいるのか。

 

仮にいたとしても、清朝政府のような

国士が存分に国民のために働ける組織になっていなければ、

未来は厳しいのは、目に見えます。

 

かつては、国を支える誇りをもって働いていたとされる官僚。

かなりの数が途中退職するというし、

募集する人も減ってきているということも読んだことがあります。

 

それは、教員も同じです。

 

人口が減っているからだけでは

不祥事がを絶たないのが説明つかないことになります。

 

労働生産性が低いこともいまにはじまったことではなく、

1940年代にはすでに藤原銀次郎という実業家が

指摘しています。

 

全体が問題だということは、

組織の上の問題だということにほかなりません。

 

細井平洲が嘆いていることが

日本全体に広がることがないよう祈りたい気分ですが、

 

そうさせているのはだれか、

学校が荒れて、会社がつぶれるとき

誰の責任かといえば、トップの責任だとだれもがいうでしょう。

 

では、国はどうなのかといえば、当然いうまでもないことです。

 

 

今日も最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

 

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