明治の日本の近代化に進む前に
今日も少し時代は若干遡る話が続きます。
急速に変貌する世界情勢が
日本近海にも目に見えてわかる18世紀後半、
当時の一般の学者たちさえ海防を説く時代に、
幕府は、情報を独占していました。
オランダ風説書に加えて、唐船風説書、帰国した漂流民、
密入国者などからも情報を得ていました。
新井白石が、日本に侵入したイタリア人シドッチに
尋問したことは有名です。
こうした様々な情報を
オランダ風説書と照合して
その情報の真否を吟味することもあった
と原田伊織氏は述べています。
(「官賊と幕臣たち~列強の日本侵略を防いだ徳川テクノクラートたち~(毎日ワンズ)」)。
さらには、フランス革命やレザノフの来航なども
報告されていたのみならず、
日本から5000㎞離れたインドが
イギリスの完全な支配下に入ったことまで
情報として得ていました。
幕府は,世界の情勢の変化の情報を
いち早く,しかも正確に得ていたはずです。
1840年のアヘン戦争については、
オランダ東インド総督が通常のオランダ風説書に沿えて
原文のまま「別段風説書」を
幕府に提供することを申し出ているのです。
アヘン戦争における「清国」の敗北は
幕府にも衝撃として受け止められたことは、
前に触れたとおりです。
この「別段風説書」は、
1840年~1857年まで幕府に提出されていました。
この内容は、ヨーロッパの最新情報もあり、
「議会」や「条約」、「植民地」など
いわゆる市民革命やヨーロッパの海外への動き
についての情報も得ることができました。
しかし、得たとしても
翻訳に相当な困難があったようです。
見たことも聞いたこともないことばです。
恐らく、翻訳したとしても
その本質を理解することは
不可能だったかもしれません。
当初の目的は、
アヘン戦争の内容を伝えることであったようですが、
それ以降も様々な情報が報告されています。
この中にペリー来航の情報、
目的や来航する艦名まで報告があり、
幕府はそれを知り得ていたのです。
オランダの国王は、日本に
一度ならず二度までも「開国」を勧めています。
ご存じの通り、幕府はこれを拒否し、
何ら準備することなくペリー来航を迎えます。
今日も最後までよんでいただき、ありがとうございます。