第二次世界大戦において

 

明らかに形成が変わってきた

1943(昭和18)年

カサブランカ会議でルーズベルト大統領により、
枢軸国側に「無条件降伏」ということばが出され、
 

同じ年、カイロ会談後にカイロ宣言として
正式に連合国として「無条件降伏」を方針とします。

無条件で降伏するということは、
戦勝国に敗戦国のその後を委ねるようなもので、
降伏したくてもできない場合もあるということは
昨日も述べました。

もっと簡単にいえば、
負けた場合はどうなってもいいということになります。

それでも、1943(昭和18)年9月8日には、
イタリアが無条件降伏しました。

1945(昭和20)年5月には、ドイツが無条件降伏します。
4月30日にヒトラーは自殺しています。

その2日前に逃亡しているムッソリーニも
反ムッソリーニ派により処刑されています。

イタリアにもドイツにも

戦争を始めた時の当事者がいなかったということです。

日本だけが最後に残りました。

日本は、サイパン・グアム島陥落後は、
アメリカ軍による空襲に爆撃されても何の抵抗もできず、
さらに1945年3月にはフィリピンが陥落して
有効な反撃は不可能になっていました。

私は、グアム・サイパン両島を訪れたことがあります。
サイパン最北端の通称バンザイクリフ(岬)で合掌したとき
「ふるさと」の歌詞で胸が詰まり、おもわず落涙しました。
バンザイクリフ
バンザイクリフ(『ウィキペディア(Wikipedia)』より)

今この文字を打っている瞬間も思い出すと
胸が詰まります。

バンザイ岬とは、日本人がアメリカ軍に追いつめられ
80mもあるかと思われる絶壁から身を投げたとき、
「バンザイ」といって飛び降りたところから

名付けられたようです。
 

それは、母とその胸に抱かれた子も例外ではありません。

その数1万人ともいわれます。

サイパン島は、第一次世界大戦以後国際連盟により

日本の委任統治領となっており、

多いときで2万人の日本人がくらしていました。

 

その記録フィルムを見たことがある私は、
本当にリアルに脳裏に浮かんだものです。

1945(昭和20)年4月に成立した鈴木貫太郎内閣は、
降伏の条件と仲介国を模索していました。

1944年都道府県別死者数を見ると、

その前年より一桁上の5桁が平均

といっていいと思います。

 

1944年から死者数が格段にはねあがります。

 

1945年4月の段階では、

条件さえ整えば降伏していたはずです。
それほど、日本は焦土化していました。

3月10日一晩で東京10万人が焼死しました。
アメリカ軍は、日本の住居が(障子)紙と木材であることを
突き止め、攻撃の的としました。

無差別爆撃です。

 

ガソリンを含んだ爆弾=焼夷弾で空襲し、
東京は地獄と化しました。

 

(上映期間は終わってしまいましたが↑)

 

日本全国、アメリカの航空機が自由に飛び回り、
都市という都市は空爆にさらされました。

場合によっては低空飛行の機銃掃射で

多くの日本人が命を失いました。
無条件降伏
日本は必死に降伏の道筋を探しますが、
それができたのは、それから数ヶ月後8月14日(15日)
さらに、何十万という人の命が奪われた後でした。
 

今日はここまでにさせてください。

 

今日も最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

 

にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログへ
にほんブログ村