今日は日本人が忘れてはならない日

今日は、ヒロシマに原爆が落とされた日です。
これは、日本人として忘れてはいけないことであり、

忘れてはいけない日だと思います。

私はそう思っています。
 

私は、歴史を教えながら、特に自国の歴史を知ることの重要性を痛感してきました。
 

今はとても苦しい時ではありますが、少なくとも日本は、世界的に見ても実に恵まれた住みやすい国の一つだといえることは間違いありません。それも、多くの祖先や先人の労苦と努力の上にあります。それが歴史です。
 

授業時に時々いってきたことは、
「朝起きて、ご飯を食べて、学校に来て、夜屋根のある家で、布団で寝ることができる。今はそれが当たり前で何も考えないかもしれないが、少なくとも君たちが努力してそうなっているわけではないよね。それは、少なくともおうちの人のおかげだ。私がこうやって生活できるようになったのも、両親のおかげだ。そして多くの人のお世話になっている。そういうことを学ぶのが、歴史だ。よくわからなければ、この1年間で勉強しながら答えを出していく」

1945(昭和20)年対米英戦争に敗れてGHQが約7年半も日本を統治下においたとき、極東軍事裁判が行われ、「平和に対する罪(a級)」「人道に対する罪(c級)」「通常の戦争犯罪(b)」で28名が起訴され、7名死刑、16名終審禁固刑、2名が勇気禁固刑でした。

大学を出る頃までは、日本の侵略戦争だからな、という認識でしたが、仕事について様々な人の話を聞き、文献などを読みながら、仕事の経験を積みながらホントにそうなのかと思わざるを得ないことがたくさんでてきたわけです。

この極東軍事裁判の判事として日本人全員無罪という判決をだしたパール判事の言葉を紹介させてください。
 

「広島、長崎に投下された原爆の口実はなんであったか。日本は投下される何の理由があったか。当時日本はソ連を通じて降伏の意思表示をしていたではないか。それにもかかわらず、この残虐な爆弾を≪実験≫として広島に投下した。同じ白人同士のドイツにではなく日本にである。

 

そこに人種的偏見はなかったか。しかもこの惨劇については、いまだに彼らの口から懺悔の言葉を聞いていない。彼らの手はまだ清められていない。こんな状態でどうして彼らと平和を語ることができるか」

東京裁判の4年後、来日した際、広島の爆心地近くの小学校での挨拶です。
 

このあと、当時20歳になった佐古美智子さんという方が、壇上にあがったとあります。まだケロイドでひきつった顔に黒眼鏡をかけていたとこの「パール博士のことば」をまとめた田中正明氏の説明にあります。
 

「わたくしたちは、過去7年間の間原爆症のために悩み苦しんできましたが、おそらくこの十字架はなほ長く続くと思われます。しかし、わたくしたちは、誰をも恨み、憎んではいません。ただわたくしたちの率直な願いは、再びこんな悲劇が世界の何処にも起こらないようにということです。」と涙に震えながらメッセージを読み上げたということです。

最近、「 8時15分 ヒロシマ 父から娘へ」という映画が完成されたことを知りました。娘の美甘章子さんという方が父から聞いて記したノンフィクション小説「8時15分 ヒロシマで生きぬいて許す心(講談社)」を自らエグゼクティブプロデューサーとなって作成したノンフィクション映画です。
 

壮絶な原爆体験をしながら、「誰も恨んではならない。許すことだ。難しいことだけれど。それができれば、世界は平和になる。」という父の進示さんのの言葉がお釈迦様の言葉のように聞こえてきました。

 

原爆で生死の間をさまよってなお、こうしたことばが出てくる高潔さに強く心を打たれました。

 

予告編だけでも、顔を背けたくなるようなシーンですが、これが現実の体験なのだと思うと息が詰まります。原爆資料館を思い出しました。

 

言葉を変えれば、世界は穏やかになるということなのかもしれません。それができるのは、日本人だと思いました。ここに、日本が生きる大きなヒントを見つける思いでした。監督がアメリカ人だということもこの映画の可能性を示唆していると思います。

 

戦争を知らない世代だけになっても、私たち日本人は依然として敗戦の上に立っており、それを自覚することからまず始めなくてはなりません。

なにもできなくても、祈るだけでもすばらしいと思います。

無関心こそ、それだけは避けたい、避けてほしいと思います。

 

今日も最後まで読んでいただいてありがとうございます。