「腐れ縁」の意味は深い ⑥
「腐れ縁」の話、今日で最後にしたいと思います。
始まりはここです。 ↓
https://ameblo.jp/nihonshiinotakafumi-2871/entry-12648115299.html
突然、英語の話になりますが、塩野七生氏が「日本人へ 危機からの脱出編」(文春新書) で大変示唆に富んだ話をされています。
英語の上級者というのは、
通り過ぎる英語が聞くつもりでなくとも耳に入る、
外国語の地域の訛がどこのものか分かる、
そして母国語と同じ速度で本が読める、 としています。
イタリア在住の長い塩野七生氏自身もその中に入るといいながら、完璧かというと、全くそうでないと述べられています。それは、母国語と外国語が同じレベルだとしても、絶対に越えられない一線があるということです。
具体的には、言語が相手に自分の考えを伝える手段にはなっても、思考する手段として同レベルになることはあり得ないということです。
つまり、日本人は、日本語で考えることによってのみ自分の考えを深めることができる。
例えば英語でその思考を深めることはできないということです。
著者がイタリアで文筆活動をする際、読むのはイタリア語、書くのは日本語、生活するのはイタリア語。その上で次のように述べられています。
「このような日々を過ごしているということは、言語というスイッチを終始切り替えている状態で、それによる緊張感は、切り替えを誤ろうものなら精神の破綻をきたす、と思うほどに強い。」
それを救うのが、帰国した際の日本語だというのです。どんなに忙しくても休養になるということです。
養老孟司氏は次のように述べられています。
脳卒中になると、字が読めなくなる場合、仮名と漢字の二通りがある。
つまり、脳は二カ所で文字を認識するとともに、脳の相当な部分をこの二種に使っていることになる。
また、
ドイツ人の校長は、数百人の生徒の顔と名前を覚えることができるが、
日本人の校長は、それは相当困難なことだ。
自分には,当てはまるように思えます。
外国人は、日本語をしゃべることができても書くことが難しいように、日本人は、読み書きはできても、話す・聴くが不得意な脳の構造となっている。
さらに、
日本人が漢字習得のために実際相当な脳を使っている。逆に音声にしなくとも意味のわかる漢字を使っているので、識字障害がほとんどいない。
「バカにならない読書術」養老孟司著(朝日新書)
本当にそんな脳の構造があるのか、正直半信半疑なところはありますが、高島俊男氏がいう、日本人には漢字はそぐわないがつきあっていくしかないという「腐れ縁」というのは、そういうことか、と納得してしまいます。
漢字をなくしたり、日本語をローマ字化してしまったら、それこそ日本人独特の考え方、文化も廃れ、ノーベル賞もとれないかもしれない、と私は考えてしまいます。
外山滋比古氏も、戦後アメリカ教育使節団が戦後日本に来て、国語という教科もなかったのですが、話す・聴くが無いことに驚き、読み書きにそれを入れて国語を4領域にするよう提言した話を書いておられたのを思い出しました。
かつて勉強の土台は読み・書き・そろばんといっていたし、「国語」は戦後できた教科であることは確かです。
ちなみに、退職してからの外国語習得ほど無駄なことはないということが、多くの退職後ガイド的な本に書かれていました。
たまたま、海外出張になった私は、全く話せない英語に火がついてしまい、どうしてもやりたくて、よせばいいのに、それに逆らってやり始めました。
はじめて4年くらいたちます。あるところでチェックしていただいたら、
なんと、中級クラスだそうで、自分でもびっくりです。
周りがどういおうと、思いの強さは大切にした方がいいということですね。
英語を話せるのは,理屈ぬきに、実に楽しいですし、世界が広がります。
同時に、日本語を大切にしながら、日本人であることに誇りをもつことが、外国人にも友人としてリスペクトされることを感じています。
今日も最後まで読んでいただいて、ありがとうございました。