左右等距離に全く同じ飲食物を置かれたロバは、自由意志がないばかりにどちらを選んでよいか決定できず、飢え死にしてしまう。さて、実際にこんなことが起こり得るかと言えば、実験しなくても明白なように絶対起こらない。どんなに条件を等しくしてもロバはどういう訳か知らないが左右どちらかの飲食物に一目散に向かって行き、それを食べ始めるだろう。それでもまだ空腹が癒やされないならついでに反対側のも平らげるだろう。これが実際に起こることであり、自由意志があろうがなかろうが関係ないのである。全く同等の二つの刺激の選択下に置かれた場合、意志的決定がなければどちらにも行動できないというのが問題の眼目なのだが、ロバには意志はなくとも食欲がある。生きたいという欲望がある。左右の選択以前に空腹を満たすか満たさないかの選択があり、飢え死にするか、しないかの選択がある。そして、この二つの選択からどちらを選ぶかはロバでも人間でも自明なのだ。つまりこのビュリダンのロバ的状況は、平衡状態でもなんでもなく、自由意志などという高級なものを持ち出さなくても、ロバでさえ食べる方を選ぶのは当たり前なのだ。また、実は左右に置かれた全く同じ飲食物という条件も全く同じというわけではないことを付け加えておく。何が違うか。そう、単純に左右が違うのである。これは上下でも前後でも同じである。左右、上下、前後が違えば自ずと嗜好の違いが生じる可能性があるのだ。全く同じ物を左右に置かれた人間は、右の方をより多く好むという実験をどこかで読んだ覚えがある。右か左かはともかくこの手の実験は心理学とか認知科学でいろいろとあるはずである。とすればロバにとっても左右の食べ物はまったく同じではなかったのかもしれない。

 子供の時、毎日が充実していた。嬉しい時は喜び、悲しい時は泣くこともあり、嫌なことは嫌々やり、面白いことがあれば笑った。そんな毎日には基本的に今、あるいは今日しかなく、高校生を見ては自分もやがてあんなになるとはとても想像できなかったし、それどころか明日のことも実は考えになかった。過去は、過去と言うほどのものは子供なのだから何もないし、ただ今だけがあった。今が楽しければ、面白ければそれでよかったのだ。それがその時の生きることであった。そんな時に生きる意味など考えるわけがない。それがいつの頃か、つまり少し知恵が付きだした頃、そして毎日の生活に少々疲れが出て来だした頃、「生きることの意味は何か」などと考え出すのだ。それまでずっと意味など考えるまでもなく、生きてきたのに、生きることを意味などと言うことよりもずっと先に何年も経験してきたことなのに、そんなことを考え出すのだ。

 実存主義ふうに言えば、実存は意味に先立つのだ。まず私たちはともかく生きているのであり、意味など後付けでどうにでもなるのである。つまり、私たちは意味があるから生きているのではないし、意味がないと生きられない訳でもない。意味など生きることに本質的ではない。そう、強いて言うならば生きることに意味などないのである。

 あるいは、こんなふうにも考えられる。生きることそのものが意味なのだ、と。何かのために、何らかの意味があるから生きるのではなく、生きること自体が意味なのだ。すでに生きることが意味である以上、その上に意味は何かと問うのは愚問である。

  生きることに意味はないと考えても、生きることが意味そのものだと考えても、実はどちらも同じことである。つまり、どちらにしても生きる意味などもはや考える必要はないのだ。私たちはただ生きる、それで十分ではないか。

 民主主義は或る一定数以下の人の数のもとでのみ、本来の機能が発揮される制度である。それがどれぐらいの人数かは、はっきり言えないが、おおよそ一堂に集まろうと思えばあつまることの出来るぐらいの人数である。例えば、おおきなスタジアムに一同集まり、会衆に向かって自分の意見を直接に発表できるぐらいの人数である。そこで全員参加の議決をしようと思えばできるような人数である。このように言えば分かることだが、民主主義ということで、基本的に直接民主制を前提としている。自分が直接意志決定に参加しているということが実感できないとこの制度は成り立たない。その点からいえば、間接民主制は民主主義の名を借りたまがい物である。スピノザは政体の一つとして貴族制を考えたが、その貴族制とは選ばれた貴族が議会を構成するものであり、早い話が今の代表民主制である。民主主義と呼ぶならば議会はあくまでも全人民によって構成されなければならない。したがって、一億人も二億人も有権者がいるような規模の国では、そもそも民主制など機能しようがない。よって、議会制民主主義などという名称は誤解を招くので、全く別の名称にするのがよいだろう。ともかく、例えば、その善し悪しは別として、今の日本の政治制度は民主主義とは違う何かであると認識することが必要だ。中国人は常にあの広大な国土と多数の人々をいかに統治していくかに悠久の昔から苦心惨憺してきた人々だ。その人々が直接民主制にしろ間接民主主義的な制度にしろそれを採用しなかったのは、端からそれが無理だと分かっていたからである。無論今でも無理なのであり、香港でやっている民主化運動は香港だけならば実現性はあるかもしれないが、あれを全土に広げるのは中国のこれまでの幾多の経験と思索を無視した、愚かな行為である。民主主義はついこの間までは衆愚政治として貶められてきた。今は反対に民主主義でなければ政治制度に非ずという極端な考え方が支配的である。そしてその民主主義の手本がアメリカやイギリスとすれば、これはもう笑うしかない状況なのだ。先入観を出来る限り捨てて、現実をもっとリアルに見ていこうではないか。