大阪府枚方市 特別史跡「百済寺跡」にも桜が咲いているかな、と思って行ってきました。
百済王神社が隣接しています。
日本と百済の歴史がわかる年表があります。
こんなパネルがありましたよ。
目線を合わせて東塔、金堂、西塔を基壇に乗せるのは、ちょっと難しかったです

「広報 ひらかた」 と合わせて・・・
こんな風に建物が建っていたんですね。


東南には、生駒山地 国見山など
北には、天王山に連なる山並みがあり、その麓には、継体天皇の陵墓 「今城塚古墳」、
また、その手前には淀川が流れています。
こちら側に古代都市があったようです。淀川から船で来て、高台を見上げると、このような
塔が高くそびえていたのです

なかなか壮観だったでしょうね。



特別史跡 百済寺跡
寺跡の西隣に百済王神社があり百済寺と称したことから、百済王氏一族の氏寺でると考えられる。したがってその一族が天平勝宝二年における百済王敬福の宮内卿兼河内守任官を契機に、摂津国百済郡の故地を離れ、ここ交野郡の土地を賜って移住し、氏神百済寺を建立したものと考えられる。
その後、一族から俊秀の人達を輩出し、また桓武天皇朝にはその外戚として繁栄し、当寺もこの氏族と盛衰をともみした。後には奈良興福寺の末寺として室町時代までその命脈をつないだように思われる。現百済王神社本殿が、興福寺と一体的なものであった春日大社関係の社殿を移建したものと認められることもこれを裏付けている。
昭和四十年、当時の市長寺嶋宗一郎ほか地元有志は、それまで雑草の繁茂にゆだねられていたこの寺跡を市民の親しみうる場所とするための環境整備事業を発起し、大阪府教育委員会はその概要を知るために全面的な発掘調査を実施し、枚方市、国および府の補助金を得て、我が国で初めての史跡公園を完成したものである。
この調査の結果、一辺長一町半、約一六〇米を占める方形寺地の中心線上に伽藍を配し、寺地南限の南門を入るとさらに中門があり、その両脇から延びた回廊が東西両塔を包容し金堂両脇に取り付くもので、新羅の感恩寺と同型式であることが分かる。また、この伽藍成立以前の奈良時代前期にも仏舎の営まれていたことが、出土瓦から考えられるに至った。さらに寺地東南角には、東院とも呼ぶべき一部があり、うちに○○を配していたことも判明した。
ともかくこの寺跡は、寺地全体とともに、主要堂塔の大部分を遺存する希有なものであり、また、その伽藍配置形式は、その歴史的背景とあいまって古代日韓文化交流の史実を徴証する価値高い史跡である。
昭和二十七年三月二十九日 文化財保護法の規定により特別史跡の指定を受ける
昭和六十年三月 文 化 庁
大阪府教育委員会
管理団体 枚方市
以前YouTubeをご案内しましたが、その内容が 「広報 ひらかた12月号」に、ありました。

「この街が好き」



「七夕伝説」や「ひらかたパークの観覧車」などを詩の中に織り込んでありますが、
「
特別なものは無くても~
」 とも・・・



実は、百済王(くだらのこにきし)氏という、立派な氏族の氏寺、古代都市という、
特別なものがあった!! ということを、
知っている枚方市民は少ないかもしれません。
もったいないですね。
お読みいただいて、ありがとうございました。