今日は、ひなまつり ですね!
木彫郷土玩具製作
鳥取県伝統工芸士
おぐらや
小掠 昌雄 さんの作品です。
美智子様が皇太子妃の時、天皇皇后陛下へのお土産にお求めになられた、と説明文が付いています。
私が持っているこれは、母が鳥取の温泉に行った時に、お土産に買ってくれたものです。
何度も木地師について書いたことがありますが、今日は動画を載せようと思います。
初めての方のために、
簡単におさらいをしますと、(実はずっと前に調べたことの記憶で書いているのですが
)

文徳天皇の時、自分の娘の産んだ皇子を皇太子にしようとした藤原氏に追われて、惟高親王が隠遁生活をした所であり、その時に巻物をヒントに、轆轤の技術を開発したとの伝説がありますが、
元々、朝鮮半島からの渡来人の技術であったと語る木地師もあり、称徳天皇は国家の安寧を願い「百万塔」を轆轤を使う職人に作らせたされたので、奈良時代までに渡来していた百済の技術者が代々伝えた技なのではないかと思います。
村は「隠れ里」とも呼ばれる奥まった山中で、落人説もあり、場所や歴史を考えると、「壬申の乱」の落人が隠れたのかもしれないと、大友皇子生存説など、私は想像します
明治になるまで、墓には菊のご紋がついており、遠い祖先の皇室とのゆかりを感じさせます。

神事に使用する器を作って朝廷に納め、
どの山の木も切ってよいと朝廷から許され、免許を持って、全国各地に移動できて山中で暮らしましたが、あまり、木地師以外の村人との婚姻はなく、同じ村や、決まった村から嫁を迎えるなどしていたそうです。百済人や秦氏のアイデンティティにこだわり、誇りがあったのでしょうか。
そういう村では惟高親王という貴種は大歓迎されたことでしょう。
藤原姓の一人が、木地師の小椋(おぐら)姓を授けられたのが始まりになり、小倉(おぐら)、奥(おく)などの姓が派生し、奥姓は春日大社の神官が始まりと言われています。
惟喬親王を木地師の祖と仰ぎ、組合を作って、全国の木地師が神社に参拝するなど、全国ネットの連帯がありました。
蒲生氏に連れられて移動した福島県や、紀州、九州、山陰、北陸地方など全国各地に木地師の村がありました。
明治になって減っていきましたが、紀州の山に残っていた木地師について書いた本に、山中で暮らす人なのに、よく読み書きをするので、不思議だと書いているものがありました。
全国に怪しまれずに移動できるということは、皇室のための諜報活動もできたのではないか、とも想像したりします。
つい最近、読売テレビten.の「美しき山村SP」のコーナーで、
「世界に誇る伝統技術 木地師の里」
と紹介されていました。
お読みいただいて、ありがとうございました。