「立皇嗣の礼」が行われました。

憲政史上初のことだそうですね。
今までは、「立太子の礼」でしたが、天皇陛下に皇男子がおられないので、実弟が「皇嗣」(皇位継承順位第一位)となるのですが、「皇太弟(こうたいてい)」等の称号は決まらなくて、「立皇嗣の礼」という名称の儀式になった、とのことです。

「立皇嗣宣明の儀」の後、皇太子の守り刀として代々皇室に伝わる「壺切御剣(つぼきりのぎょけん)」を天皇陛下が秋篠宮さまに授けられました。儀式は非公開でしたが、恭しく持ち運ばれる様子を映した報道で、その刀キラキラを目にすることができました!

この度、この守り刀は、兄から、弟へ授けられたのです。



宮内庁によると、天皇から皇太子に御剣とされる刀が授けられたことが初めて文献で確認できるのは平安時代前期、敦仁(あつぎみ)親王(後の醍醐天皇)が皇太子となった893年のこと。父の宇多天皇が、関白だった藤原基経から献上されたものだそうです。

藤原氏の刀です。


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聖武天皇の遺品を、光明皇后が東大寺に献納した目録の中に、このような記録がありました。

黒作懸佩刀 一口

右、日並皇子、常に佩持せられ、太政大臣に賜ふ。大行天皇、即位の時、すなわち献ず。大行天皇、崩ずる時、また大臣に賜ふ。大臣、薨ずるの日、さらに後の太上天皇に献ず。


この刀は、今は行方不明になっていると言いますから、「壺切御剣」とは、別のものなのでしょう。


持統天皇の息子の草壁皇子が、常に身につけておられた「黒作懸佩刀」(くろつくりかけはきのたち)は 、藤原不比等に渡されました。

次に天皇になった母が預ったのではないのですね。男性が持つべきものだからでしょうか。

藤原不比等は、文武天皇が即位する時に、その刀を授けました。

そして、文武天皇が亡くなった後、再び、藤原不比等が預りました。

元明天皇、元正天皇には授けませんでした。

女性天皇は、やはり持たないのですね。

藤原不比等が亡くなった後、聖武天皇に授けられました。


これが、記録に残っていることのようですが、

なぜ、藤原不比等が仲介するように、受け渡しされたのでしょうか?


そもそも、草壁皇子は、誰から授かったのでしょうか?

母 持統天皇が、皇子のために作らせたものなのか?

それとも、父 天武天皇から授かったのか?


もし、そうだったなら、とても由緒あるものですから、そのように書いていても不思議ではないですね。


書いていないのは、なぜなのでしょう?


それとも、もともと藤原不比等が持っていたのでしょうか?


もし、藤原不比等からだとしたら、藤原不比等は、誰から?


そこで、私は、ちょっと遊び心も手伝って、空想してみたんです~。


「藤原不比等は、天智天皇のご落胤」との記録が『大鏡』にあり、『帝王編年記』の記述とも一致するということです。


次々と粛清をする天智天皇は、敵が多かったので、次に生まれる子は、母親の妊娠中から、中臣鎌足に預けて、守ることにした。


内大臣藤原卿の采女(うねめ) 安見児(やすみこ)を娶(ま)きし時に作れる歌一首


われはもや 安見児 得たり 皆 人の 得難(えかて)にすといふ 安見児 得たり

この歌が、その時の鎌足の、喜びはしゃいでいる様子を表している、とも言われています。


男の子が生まれたので、鎌足の子としたが、

天智天皇の子である証として、「黒作懸佩刀」を授かっていた。

そして、日本書紀に突如、現れた31歳になる頃、その刀を持って、持統天皇に会いに行き、役人に採用された~。


と、こんな空想です。


さらに、天智天皇は、誰から?


この刀は、百済製とも言われています。


天智天皇は、実は、百済王子 豊璋で、百済を離れる時、百済王子の証として、父 義慈王から授かった。



真実は不明ですが、辻褄の合う妄想として、

ちょっと面白いと思いませんか?

私だけでしょうか爆笑


最後は眉唾と思われるかもしれませんが、

「七支刀」も、読みようによっては、

「百済王の世子が生まれたので、倭王と為す旨にて造らせた」と読めないこともない?!と思うのですが、、、えー?



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ところで、「壺切御剣」って、まるで、壺でもスパっと切れちゃうみたいですね。

闇の鬼が拐いに来ても、やっつけられますよ!

「鬼滅の刃」ですねニヤリ



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皇室の皆様が、どうか、お健やかに朗らかに過ごせますように、お祈りいたしますドキドキ



お読みいただいて、ありがとうございますクローバー