羽曳野市にある飛鳥戸(あすかべ)神社に行ってきました。
ここには、百済から倭に来た昆支王(こんきおう)が祀られています。
昆支王に日本と韓国の絆を感じて親しみを持つ人々が、よく訪れるようです。
![ウインク](https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char3/072.png)
日本人は、一般的には百済のことをあまり知らない人が多いです。
韓国では、日本は百済、という認識が広まっているのでしょうか?あちらの新聞にそう書いてありましたが?
日本の起源や、天皇のことでもあるので、歴史専門家ではない、普通の人も、百済と日本の縁については、自分なりの考えを語れたらいいな、と思いますが、いかがでしょうか?
私もまだまだ知識が浅いので、ブログを書くのは勉強になります。
日本書紀によると、
昆支王は、蓋鹵王の弟で、雄略天皇5年(461年)に、
日本に来ました。その時、兄蓋鹵王の子供を身ごもっていた妻をひとり賜りましたが、筑紫の島で男子が生まれたので、母とともに送り帰しました。 (のちに、その子は武寧王になりました)
その頃の百済王の歴史です。
蓋鹵王が、高句麗との戦いで殺されました。
文周王が急遽、遷都して即位しました。
しかし、ある日、狩りに出て外泊した時に、解仇(かいきゅう)という貴族の高官 佐平に暗殺されました。
まだ少年の三斤王を傀儡にして、解仇が実権を握りました。
昆支王は百済に帰国しましたが、佐平になって3ヶ月で急死してしまいました。 何があったのでしょう、、、?!
翌年、解仇は他の貴族に殺され、三斤王も急死。
そこで、昆支王が日本に残していた5人の子のうちの第二子が帰国して、東城王となりました。
即位年は次のとおりです。
21代 蓋鹵王(455年~475年)
在位20年
雄略天皇(456年即位?)
昆支王(461年 来倭)
22代 文周王(475年~477年)
在位2年
雄略天皇が与えた久麻那利(熊津)に遷都して即位
昆支王が帰国 雄略天皇が兵500人をつけた
(477年4月佐平に・7月 急死?)
23代 三斤王(477年~479年)
在位2年
24代 東城王(479年~501年)
在位22年
25代 武寧王(501年~523年)
在位22年
こうして見ると、蓋鹵王が戦死してから、昆支王の息子の
東城王が即位するまで、本当にバタバタしましたね
百済王の系図は、史書によって違いがあるので、正確には不明ですが、文周王は、蓋鹵王の母の弟だったという説もあります。
それが正しければ、蓋鹵王の直系ではないですね。
後継者としては、不安定でした。
昆支王は、帰国して、この混乱を何とかしなければ、と思ったに違いありません。
昆支王は、蓋鹵王の弟(あるいは子)なので、本来は、正統な王に
なる資格もあり、それを望む貴族の勢力もあったかもしれません。
実権を握っていた 解仇にとっては、自分を脅かす存在だったでしょう。
武寧王が男大迹王に献上したかと思われる「隅田八幡神社人物画像鏡」があります。
諸説ありますが、刻まれた文字「日十大王」とは
漢字の上だけを取っている、つまり日十とは昆支、昆支大王の可能性はないかなー?と、考えてみました、、、
461年に日本に来た時、20~30才の青年だったとしたら、鏡が作られた503年に、60~70才くらいです。
三国史記の、百済で死去という記述が誤りであったら、日本に帰って生きていた可能性はあります。
隣の柏原市には高井田山古墳があって、百済系と見られています。もし、日本で死去したとしたら、この古墳が昆支王の墓ではないか、と言われているそうです。
「日十」が昆支王のことだとしたら、なぜ「大王」と言っているのか、、?
武寧王は、同盟国としての倭を頼りにしていたので、「大王」と持ち上げた言い方をしたのか、あるいは、もしかしたら、大王と認識していたとか、、、?
いつもの歴史ロマンの話です
おしゃべり古代史なので、ご容赦を!
武寧王の時に、百済は大いに繁栄したそうですが、
それにしても、昆支王が倭に来る時、妊婦をもらって、途中で生まれたから返した、というのは、いったい何のためだったのでしょうか?
倭生まれの王だと、両国が連邦国家になれるからでしょうか?
意味が分からないので、本当かどうか、、、
たとえ、もし、本当は昆支王の子供だったとしても
武寧王の直系の正統な後継者として即位したことが
国の安寧と繁栄に大きく影響したのではないかという気がします。
それは、これからの日本の皇位継承問題についても言えるかもしれません。血統の正統性は大事ですね!
ところで、雄略天皇が、半島内に土地を持っていて、そこに王都を築いたいうこと、気になりますね。雄略天皇は、ライバルを次々と殺して即位しています。その名も雄略とつけられていますよ。親百済の大王だったことなどから、もしかしたら百済から来た人なのではないか、と思ったりもします。
百済が高句麗に攻めらて存亡の危機にあった蓋鹵王の時の即位ですし、倭の五王の最後の王とも見られていて、大陸から独立志向に転換した王でもありました。
でも、安心してください!応神天皇も百済王族かもしれない、と私は前に書いています。
トンデモナイ!!と怒られそうですね
竹田恒泰さんが昨日、本の宣伝で動画チャンネルに出演して言っておられました
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