私は以前、継体天皇(男大迹王)は応神天皇の子孫、と書いたことがあります。
前回は、昆支王の長男と書いたので、どっちなんだ?ということになるかもしれません、、、。
日本書紀には、応神天皇の五世孫、と書いています。
それを、真実かどうか、怪しい という見方もありますが、
応神天皇は、神功皇后が朝鮮半島で身ごもった百済王の皇子、という仮説を立てると、
継体天皇が、親百済政策の大王だったことと矛盾しないので、確かに、応神天皇の子孫だったのかなぁ、、、なんて思っています。
日本書紀の各天皇の生没年が、そのままだと、あり得ない長寿の天皇が現れるので、諸説ありまして、その中で120年前倒ししたのではないかという説に従うと、
例えば、応神天皇は本当は、320年に生まれたことになります。
百済の近肖古王の生年は不詳で、
即位年は346年、375年に没、ですから、例えば、300年くらいに生まれたとも考えられます。
そうすると、例えば、近肖古王が
20歳の時に
応神天皇が生まれても、おかしくはないですね。
4世紀に物部氏に送られた七支刀は、近肖古王から、応神天皇へだったかな、と歴史ロマン
ですけれど、、、
百済王の系譜では、近肖古王の王子から昆支王の息子 東城王までは、およそ8代くらい(史料により違いもあるので)離れているようですが、何歳の時に生まれた王子かということで、5世孫くらいはあり得ないことはないですね。
また、律令で、5世孫までと定めたので、それに合わせたという説もあります。それは、ありそうだ!と思います。
というわけで、継体天皇は、応神天皇の5世孫~8世孫くらいであり、かつ、昆支王の
長男だった、という仮説が、成り立たないわけでもないですね。
さぁ、史実はどうでしょうか?
お読みいただいて、ありがとうございました