女帝
〈七〇〇年 軽皇子が即位(文武天皇)しはった直ぐ後どした。 不比等右大臣は娘の宮子を帝に嫁がせて、夫人(ぶにん)にしはりましました。
ほんで、藤原姓が許されるのは藤原不比等右大臣の子孫だけに限る、と定めはりました。日本書紀の中で、中臣鎌足が死ぬ前日に、天智天皇から藤原姓を授けられた、と記すことにしたので、それまでは、他の兄弟たちにも藤原姓を名乗らせてはりましたが、この時からそれを止めさせたんどす。これから皇子が生まれれば、右大臣の子孫だけが藤原姓を継いで子々孫々まで外戚として天皇家に仕えられるようにと、準備は整いましたが・・・〉
「今日もまた、朝早うから呼び出して、すまぬな」
サララは不比等の顔を見てにっこりして言った。
「何を仰せられますか。私は、この身も心も、とうの昔から上皇様に捧げております。命を賜れば、いつでも、このようにすぐに、参上いたします」
と不比等はくったくのない笑顔で答えた。
「おおきに、不比等」とサララは、また微笑を返した。
「では、早速やが・・・、今日は、女の天皇について話を聞かせてもらおうと思うて来てもろたのや。近頃、自分が死んだ後のことが何かと案じられてのう。書紀にどのようなことが書かれるのかも、気掛かりでしょうがない。いろいろ聞いておかねば、死んでも死に切れんのや」
若い頃は、誰よりも美しくて、豊か過ぎる程だったサララの緑の黒髪も、すっかり痩せて霜が降りたようになってしまっている。
「何を弱気なことを、仰せられまする」
「いやいや、軽殿と宮子の婚儀が整った折りには、これで肩の荷が少しは降ろせると思うたが、もうあれから三年や・・・。いまだ皇子が生れぬとは、これでは肩の荷はますます重うなるばかりや・・・」
サララはため息まじりに言った。
「申し訳ございませぬ。宮子の父親である私の、不徳の致すところでございます」
「何も不比等のせいやと責めておるわけやないが、心配事は年を重ねる毎に増えるばかりで・・・、これでは、寿命が縮まる。万が一、このまま皇子に恵まれなんだら・・・と思うたら・・・幾晩眠れぬ夜を過ごしておるか・・・。昨夜も、何とのう眠れぬままに、気が付いたら朝になっておった」
不比等はサララの気持ちが痛いほど伝わり、申し訳なさに冷や汗が噴き出しそうであった。
「われが、女の身でありながらも夫(つま)の地位を継いで、天皇になったのは、息子が即位を目前に死んでしもうて、幼い孫が成長するまでの中継ぎとして、不比等に勧められたからやったが、思えば、そもそも、大海人が天皇の地位につくことができたのは、われのお陰や。われが、背中を押して近江大津宮の大友皇子を討つ戦に立たせたからや。あの日のことは一生忘れぬ。そやから、その褒美として、『私が産んだ皇子に立派な京を造ってやってください』とお願いして、良い土地を探してもろうたのがここや。われが帝から授かった京を造る土地やったから、それを他の女の産んだ皇子にやってしまうのは絶対に嫌やった。意地でも他の皇子を天皇にさせるわけにはいかへんかった。
しかし、われが天皇になるのを不満に思う者が少のうなかったのは、よう知っておる。
それでも、周りの者の苛立ちを承知の上で、そうしたのは、今までにもそのような例があったので大丈夫でございます、と、不比等が言うてくれたから、勇気をもって、できたのや。
だが、何でこの女が天皇なのや・・・、という目で見られとうないから、われは、いつも几帳の内に隠れておった。女の姿が丸見えでは甘う見られる、と思うてな。たまに声を出す時もなるべく低い声をだして・・・、ほっほっほ。われのようなか弱い淑やかな女が、大勢の男を従わせるのは難儀な仕事や」
と、少しおどけてみせた後、急に体を不比等の方に乗り出して声を潜めて言った。
「しかし、不比等や、同じ女というても、われが即位した同じ年に唐で即位した武則天は、世にも恐ろしい女やそうやな。武則天は我が子を殺してその罪を皇后と嬪に着せ、その手足をちょん切った上、酒樽に漬けて幾日もかけて殺したというではないか・・・。いくらなんでも、そんな耳を塞ぎとうなるような話は、われは、恐ろしうて信じとうない。しかし、権力に血眼になる男らを、おとなしゅう従えさせるためには、そのくらいの噂が流れる程のしっかりした女やないとあかんのであろうのう・・・。
それから、夫の高宗を「皇帝」やのうて「天皇」にして、自らは「天后」と称して、夫に思うがままに指図しておったそうやないか。それは、もしかしたら我が国は「天皇」が治めておるということが、遣唐使から唐に伝わったからやないやろか。それを聞いた武則天は、『それは良いことを聞いた、夫が「皇帝」であるよりは、「天皇」くらいの方が、やりやすい。真似をして夫を「天皇」と改めさせよう。そして自分は天皇の皇后として「天后」と改めよう。天皇と天后ならどちらも格が同じくらいになろう』ということやったのやないのか。聞いた話では、夫が病に罹ると治療も止めさせ、死んだ後、自分が皇帝になったそうやないか。まことに恐ろしい、そのような女が日本を攻めて来たらなんとしようぞ。捕えられて王宮に連れて行かれて、ほんまに、われも手足を切られて酒樽に漬けられて・・・おおぉ・・・恐しや恐ろしや」
サララは、身の毛もよだつ恐怖に、両腕を抱えて身を縮めた。
「五〇年程前、百済が倭と高句麗と同盟を結んで新羅を孤立させていた頃、新羅の善徳女王が唐に救援を求めたら、唐は、新羅に、女王を廃して唐の王族を新羅王に据えろ、と言うてきたそうです。そこで、新羅では、女王を廃そうとした臣下が内乱を起こしたそうです」
「女の王でのうても内乱は起こったのやろうか」
「さあ、どうでございましょうか」
「ああ、不比等に援けてもろうて、われも、ようようここまで来られたが、もし、われが死んだ後、『そもそも先代が、女だてらに天皇などと名乗ったのが間違いであったのや、その孫が天皇を継ぐ道理などないのや』と、年若い軽殿が誰かにに攻められて国内でまた戦にでもなったら・・・と心配になってきた。ほんまに、ほんまに大丈夫なのか・・・」
「はい、ご心配はごもっともでございます。お話しいたしましょう。書紀では・・・、
初めての女の天皇は、額田部(ぬかたべ)皇女 (ひめみこ )ということにしております。
額田部皇女が確かに大王の威厳のあった方であられたかどうかは、私には解りかねます。
もしかすると大臣に大王家の血筋として利用されたのかもしれませぬ。しかし、
上皇様のために、書紀には彼の姫君を、最初の女の天皇として書いております。彼の姫君は父君と夫君が天皇であったので、それは上皇様とお立場が同じです。ですから上皇様に天皇になる資格がおありであった、ということになります」
(初の女帝と言えば有名よ。額田部皇女とは推古天皇のことね)
小桜はつぶやいた。
「おおきに。それを聞いて、ほんに安心や。即位から何年経っても蔭では男どもが、女のくせに、とか女だてらに、とか女で大丈夫なのか、と言うておるのをわれが知らぬと思うておるのか、と言いたいわ。われは男のようにすぐに大声を出して怒ったり、鞭うちを命じたり、まして首を刎ねたりはせぬ。そのような野蛮なことはしとうないのや。智恵を働かせて黙らせねば」
「はい。陛下を皆がお慕いして敬い、威厳をお保ちになるよう、私も倦 ( う )まず弛 ( たゆ )まずの日々でございます。
額田部皇女の時代は、それまでの大和の神への信仰でまとまっておった倭国を、嶋の大臣が国家への大きな一歩を進め始めたので、良いまつりごとをした優れた女の天皇の前例として、上皇様に好都合でございます。嶋大臣には「蘇我馬子」と、おくり名しましたが、その功績の部分は甥の「厩戸皇子」がしたことにしましょう」
「そうか・・・、よし、おおきに。われのそばで、律令の編纂など、まつりごとをしてくれておる不比等も厩戸皇子のようやと、褒められるやろう。ところで、その姫に後継ぎの皇太子はおったのか?」
とサララが聞いた。
「はい、皇子がおられましたが、若くして亡くなってしまわれました」
「ふむ、それも、われと同じか・・・。その姫は、もしかしたら、初めは、『王子さまをお守りし、大王にして差し上げましょう』などと言い寄られ、大臣にそそのかされたのではないか?」
と、サララが聞くと、
「さぁ・・・」
不比等自身も似たような立場だが、騙そうなどと考えたわけでは・・・、と慌てて弁解する必要はなかった。サララの言葉に他意がないのはよくわかっていた。
「その姫は、世継ぎにと期待した息子に先立たれ、失意のうちに、生涯を終えられ、後継ぎを決めておられませんでした。
そして、その後、王様が渡って来られました。大臣の息子が遂に大王位に就いてしまうのを防ぐためでした。いかに、倭国で大王も同然に振舞っておった嶋の大臣でも、半島の本国から王様に渡って来られたら、すっかりおとなしうなってしまいました。
王様はこの時初めて『天皇』(舒明天皇)と称され、豪族たちは天皇に従いました。自分の家を大王家にしようと企んでいた大臣の野望は敢え無く破れました。
書紀では、王様の幼名を「田村皇子」とし、「蘇我入鹿」を「山背大兄王」にしておりますので、蘇我蝦夷が息子の入鹿はまだ若い、と辞退し、豪族たちが話し合って決めた、ということにします。このことは、天皇が後継ぎを決めずに崩御なされた場合、そういう決め方もあるという、ひとつの良い前例になります。争いなく血を流さずに決めた、良い前例でございます」
「なるほど良いな。それで・・・」
つづく

舒明天皇と百済武王の崩御の年が同じということや「百済宮」の名前などから、同一人物と仮定して物語をつくっています。