「百済が伽耶諸国へ侵出して得ていた土地につきまして、ご提案がございます。もともと日本の領地であった地を百済が譲り受けたことも書いておいてはいかがでしょう。上多利(おこしたり)、下多利(あろしたり)、娑陀(さだ)、牟婁(むろ) と、己文(こもん)・帯沙(たさ)いつの日か、失った百済の故地を取り戻す日がくるかもしれません。そのためにまず、足がかりになる所が半島の南部でございます。伽耶から逃げてきた王族も、今や日本人。百済王族も今は日本人。もともと、かの地が日本人の土地であったと書いてもそれは嘘ではございません」
「ふむ。ふるさとの国を追われてこの嶋に渡って来た者たちが、この嶋の新しい国つくりに力を尽くしてくれておるのやが、年をとっても、今だに、奪われて失ったふるさとの土地に未練を残しておる者がおる。彼の地に残して来た身内の亡骸の始末もできずに、命からがら逃げて来た者たちや。この嶋で死んだ者も魂はまだ彼の地に半分残しておる」
「はい。私は、そのあたりを『任那日本府』と記して、そこには日本の役所があり、統治をわがされていたかのように書くつもりでおります。伽耶の4県についても、日本が百済に譲ってやった、と書きます
「そうやそうや」
「百済の東城王も武寧王も、倭国から百済に帰国して百済王に即位しました。帰国の際、倭国の王族や倭人を多数伴い、百済官僚として、百済の南端に住まわせたそうでございます。倭国風の前方後円墳を半島の南部に幾つも造り、百済王族と倭国王族の親密さを示して見せたということですから、古墳が証でございます」
「ふむ・・・、日本人となった元百済人や元伽耶人が納得するように書いてくれたら構いますまい」
「はい」
「それは男大迹大王が譲ったと書くのか」
「いえ、大伴金村の失敗ということになっていたらしいです。それを責められて失脚したということです。大王が簡単に他国に国土を譲っては怪しまれますから、伝わっておりますとおりに記しておきましょう」
「南加羅と喙己呑 (とくことん)を新羅に奪われて、倭国からも援けに行ったが、取り返すことには失敗したのやのう」
「それは近江毛野臣の失敗ということになっております」

「~枚方ゆ 笛吹きのぼる 近江のや 毛野(けな)の稚子(わくご)い笛吹きのぼる

近江の毛野臣の亡骸が船に乗せられて帰ってきて、淀川の枚方をのぼって行ったという歌や。息子が弔いの笛を吹いて、妻が泣きながらこの歌を詠ったのか、哀しい歌やのう」
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クローバー左の山の向こう側が樟葉宮跡伝承地で、手前が京都・近江方面です。

「倭国の土地を百済に譲った汚名を着せられて帰る途中に亡くなったそうでございます。」
「ふむ、それにしても不比等が言うように、唐と新羅に奪われた百済の元の領土が帰ってくる時がいつかくるかのう」
「さあ、どうでございましょう・・・」
「海の中に浮かぶこの大八嶋の国で十分やと、われは思う。新羅は、元百済人にとっては憎んでも余りある敵やが、まあ今しばらくは、唐から日本を守るために、盾となってもらう必要がある。それなりに付き合っておこう。新羅にとっても、背後のわれらは敵にできぬ。お互い様や。朝貢してくるなら拒むこともなかろう。
あそこは唐のすぐ隣やから気の毒や。将来、いつの日か援けを求めて来た時には応じてやることがあるやもしれぬ。過ぎたことは水に流して・・・」
「ご立派なお考えでございます。そのようなお考えから、遣唐使は途絶えたままでも、新羅には遣いをやるべき、と仰せでしたのでございますな」
「まぁ、そうやな。それも日本を守るためには必要なことや。その向こうに大国がおれば仕方ない」
「それにしましても、唐の武則天の立場からしてみれば、新羅王の使者が『援けてください』と頼んで来たから、軍を出して、百済を滅ぼしてやったのに、それが、しばらくしたら、元百済領の統治をしておった都督府の役所を襲って、唐の役人を殺すとは、いったいどういうことだ、と怒り心頭であったに違いありません。新羅は唐に冊封されて、今も謝らされてばかりおるとか。仕方ないことかもしれませぬなぁ」
「ほんまにのう」
「しかし、できるだけ唐は、こっちの方に寄って来ぬ方が安心です。新羅が唐を半島から追い返してくれてわれらは助かりました」

つづく